クリストシュトレン(Christstollen)
クリストシュトレン(Christstollen)
もう12月ですね、クリスマスの時期がやってきました。クリスマスといえばクリストシュトレンといわれるドライフルーツがたっぷり入ったパン菓子の時期です。
このパン菓子はもともとドイツのドレスデンが発祥の地といわれていますが、オーストリアでもこの時期になると美味しいシュトレンがパン屋・菓子屋の店頭のみならず、スーパーや食料品店でも沢山並びます。残念なことに昔ながらの手作りシュトレンは手間隙がかかるため、機械での大量生産のシュトレンが多くなってきたことも確かです。ウィーンでお買い求めの際にはスーパーよりも菓子屋・パン屋などでお買い求めになるといいでしょう。
このシュトレンというのがいつ頃から作られていたのかは定かではありませんが1474年、ドレスデンのバートロモイス病院の診療代に、復活祭前の精進食として記されているので、それ以前にもあったのでしょう。この日に出来たという証拠はありませんが1400年代(1450年の説もあり)といわれています。
粉砂糖がたっぷり振りかけられた外観と特異な形からザクセン地方の方言からStolle又は、Stollenと呼んでいたのでオムツ、オシメという言葉が生まれたようです。
また、粉砂糖をたっぷりまぶしてある姿から、幼子イエスを産着で包んでいるというふうに見たてられていると言う説や、はたまたキリストの枕とも言われていますがなるほど、そんな気がしないでもありません。
このシュトレン、出来上がりを食べても美味しいのですが、12月の初めに作られたシュトレンを少しづつ(1cm位)食べていくとクリスマスになる頃には熟成した、えも言われぬ味わいに驚かれることでしょう。ヨーロッパの人々はだんだんと小さくなっていくシュトレンに未練を残しますが、神聖なる我が主の日が近づいたいたことに喜びを見出していくのです。菓子・パン類にこのような食べ方があるのは多分このシュトレンだけでしょう。
このシュトレンもいくつかあります。
■ クリストシュトレン(Christstollen)
一般的に呼ばれている基本のシュトレン。
バター最低30-50%ドライフルーツ 60%。
■ ヴァイナハツシュトレン(Weihnachtsstollen)
クリストシュトレンの別名
■ ドレストナーシュトレン(Dresdner Stollen)
■ ブッターシュトレン(Butterstollen)
■ マンデルシュトレン(Mandelstollen)
■ マジパンシュトレン(Marzipanstollen)
■ モーンシュトレン(Mohnstollen)
このような種類があります。
今年のクリスマスに『クリストシュトレン』は如何でしょうか。
スキーの歴史
スキーの歴史
オーストリアがスキー大国であることは世界の人々が認めていることです。チロル地方にはスキーヤーを満足させるゲレンデが幾つも存在し、その施設はオリンピックの会場となったほどです。
日本人におなじみのスキー場『サンクトアントン』はアルペンスキーの発祥地として知られていますが、これは1907年ハンネス・シュナイダー(JohannesSchneider)によって『サンクトアントン』にスキー学校が設立されたからです。『サンクトアントン』はスキーばかりでなく夏はハイキングやいろいろなスポーツを楽しめます。だからといってオーストリアがスキーの発祥の地ではありません。
スキーは紀元前2500年ごろスカンジナビア半島の壁画に狩りをする人がスキーを履いた姿が描かれているのが確認されています。また、10世紀から11世紀にかけて、バイキングがスキーを軍用に用いたという記録も残っています。雪国では雪に埋もれないよう、カンジキ状の履物はあったようですが、雪が沢山降ったからといってそれがスキー板になり、それで滑るという記録は他の国では、ないようです。今ではスカンジナビア半島の選手よりもオーストリア、スイスなどの選手の活躍が目立ち、日本の柔道のように、お家芸が他国に奪われた感がしますね。でもノルディックスキーは強いですね。それもそのはず、もともとスキーは雪道を速く移動する手段だったようです。
日本はというと、明治時代に優秀なオーストリア人を師として教えを請い年々スキー人口も増え、日本もスキー大国となったのです。それは、1911年(明治44年)1月12日に、新潟県上越市において、オーストリア人のデオドール・エドレフ・レルヒ少佐(1869~1945)が日本の軍人にスキー技術を伝授したことが始まりと言われていますが、静岡県富士宮市にはそれよりも前にスキー教練をしたという話もあるのでレルヒ少佐が日本のスキーの祖とは言い切れませんが大規模なスキーの研究と普及の計画を立て、組織的、精力的にスキーの研究を実行したのでレルヒ少佐が日本人に初めて教えた教師としてもいいのではないでしょうか。
私は昔、トニーザイラーの映画を見てスキーが好きになったのですが、1930年(昭和15)映画と著書「スキーの驚異」で世界を席巻したシュナイダーが来日し、日本のスキーヤーに決定的な影響を及ぼしたそうです。
初の冬季オリンピック大会は1924年、フランスのシャモニーにて国際スキー連盟(FIS)が結成され、同年、シャモニーオリンピックが開催されました。
それではインスブルック市周辺のスキー場のご案内 をいたします。
● ゼーグルーベ/ノルトケッテSeegrube (856~2256m)
● パッチャーコーフェルPatscherkofel (922~2247m)
● アクサマーリーツム Axamer Lizum (1583~2338m)
● ムッテラーアルム (950~1800m)
● グルンゲッツァー Glungezer (950~2304m)
● シュトゥーバイ氷河Stubaier Gletscher(1750~3210m)
● シリック2000 Schlick 2000 (1000~2610m)
どこのスキー場でも、あなたの期待は裏切らないと思います。
オーストリアスキー場のURL
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ウィーン大学(Universitaet Wien)の歴史
ウィーン大学(Universitaet Wien)の歴史
ウィーン市内リンクをシュトラッセンバーン(市電)で右回りでも左回りでも回ると国会議事堂、市庁舎などと並んでウィーン大学が見えてくる。このウィーン大学(Universitaet Wien)は、1365年ルドルフ4世により創設された、ドイツ語圏最古・最大の大学の一つです。観光する方は市電の中や遠くから眺めるだけで済ます方もいますが階段を上り、ドアを押して一歩中に入ってみませんか?
教室の中に入るのは禁止ですが、中庭に入るだけでも最古の大学に来た思い出が出来るでしょう。通路に過去の主な教授たちの像が並んでいます。また、ここのメンザ(学食)で食事を取るとかなり安く昼食代を抑えられる事でもよく知られています。
ここを卒業した有名人が多いことに驚かされます。
ノーベル賞受賞者も多数います。一例として。
ローベルト・バーラーニ - 医学者
ルートヴィッヒ・ボルツマン - 物理学者、哲学者
エルフリーデ・イェリネク - 作家
ハンス・フィッシャー - 化学者 など。
また、ウィーン大学で教鞭をとった著名な学者の一例。
アントン・ブルックナー - 作曲家
ヴィクトール・フランクル - 精神科医、心理学者
ジクムント・フロイト - 精神分析学者
クリスチャン・ドップラー - 物理学者、数学者、天文学者
そして、ウィーン大学で学んだ著名人の一例として。
グスタフ・マーラー - 作曲家、指揮者
グレゴール・ヨハン・メンデル - 遺伝学の祖
シュテファン・ツヴァイク - 作家・評論家
斎藤茂吉 - 歌人、精神科医 など、聞いたことのある有名人が多いですね。
学部・研究所は以下のような構成になっていますがあなたも学んでみますか?
カトリック神学部 プロテスタント神学部 法学部 経済学部 情報学部歴史学部 文献学部 哲学・教育学部 心理学部 数学部 物理学部化学部 地理・天文学部 生命科学部 通訳センター スポーツ科学センター
ウィーン大学リンク
オーストリアの教育制度
オーストリアの教育制度
21世紀になり世界の文盲率はかなり低くなってきたとはいえまだまだ教育の行き届かない国もあります。
日本では99.8%(男性99.9%、女性99.7%)というかなりの高水準ですが、アフガニスタン36.3%、アフリカのニジェール17%というのもあります。日本は江戸時代から庶民が寺子屋に通って読み書きが出来ました。庶民レベルでは世界に類のない教育機関ですね。ヨーロッパではどうかというと、教育は貴族や金持ちの子弟が学ぶくらいで、当時の知識人はラテン語が読み書きできるということでした。庶民は読み書きが出来ないため教会では神の教えをステンドグラスや教会絵画でもって知る事でした。また、高貴な女性といえども文盲率は低く、教育は男社会だけのもので、中世の絵画で女性が本を持っている作風を見かけますが、これは「私は本が読めますよ、字が書けますよ」ということをアピールしているわけです。
オーストリアでは女帝マリア・テレジアが1774年に「一般学校令」を公布、オーストリアの教育制度の基礎を築きました。19世紀にはギムナジウム等の一般学校、職業学校、教員養成の3分野からなる学校制度が成立、そして1869年には8年間の義務教育制が導入されました。現在オーストリアの就学義務は9年間に延長されています。
少し詳しくいいますと6歳から10歳までは大体全員がフォルクスシューレ(Volksschule)とよばれる、日本でいうところの小学校へ通います。その後が日本と少し違っていて、まず10歳のとき、小学校卒業の時点で、大学の進学を目的に一般的な教育を受けるギムナジウム(Gymnasium 中学・高校にあたる学校)に行くか、職業訓練を主とした教育を受けることのできるハウプトシューレ(Hauptschule)に行くかを決めます。親の職業を継ぐ人も多く、親がサラリーマンや技術者であると大学へ行く人も多く、料理人や菓子職人であるとその職につく人もいて、日本人のように何が何でも高等教育といって大学に行く人は少ないようです。だからといってエリート意識が低いわけでなく日本人以上にエリート意識が強いことも確かです。
でも10歳で将来を決めるというのは早いのでは、という議論もありますが、ハウプトシューレに進学すると、14歳の時にギムナジウムへ進学するか、もしくはさらに技術的な職業訓練を受けられる学校へ進むかという選択があります。
それにしても少し早いですね。大学へ進学したい人の多くは、ギムナジウムへ進学し、10歳から14歳まで下級クラスで学んだあと、14歳から18歳まで上級クラスへ行き、最後にマトゥーラ(Reifeprufung/Matura)を受けます。このマトゥーラというのは高校卒業資格試験に合格しました、ということで、これを持っていると、どこの大学でも入学することが出来ます。日本みたいに大学入試の試験はありません。それに日本のように東大とか京大という国立大学でなくてはだめとかいう、大学偏重の考えがありません。どこの大学へ行って何を学びたいのかが重要だそうです。うらやましいですね。ちなみに、学費は1学期約4、5万円だそうです。
職業高等学校(Berufsbildende Hohere Schulen)を選んだら職人となるために一生懸命に勉強します。レアリング(Lehrling)とよばれる見習い修行をしてマイスターとよばれる師匠(Meister)につき、職人、師匠とキャリアを積みます。マイスター試験は一度しか受けることが出来ず失敗すると二度とマイスターの試験は受けられません。この制度にも多少の問題があるようでいずれは改正されるようです。オーストリアの教育制度がいいのか、日本の教育制度がいいのか難しいところですね。
「革命」と「パン」 その1
「革命」と「パン」 その1
"Qu'ils mangent de la brioche"「パンがなければケーキを食べればいい」
★ケーキと訳されていますが当時はブリオッシュと言う単語を日本人は知らないかも??ということでケーキと意訳されたのかも知れません。この言葉を聞いた人も多いことと存じます。マリーアントワネットが言った言葉として有名ですが以前にもこのメールマガジンでも紹介しましたがその追記となります。
そもそもフランス革命前夜、国民がパンが足りなくて困っていると聞かされた王妃アントワネットが、「じゃ、ケーキを食べればいいじゃないの」という言葉が、あたかもアントワネットがいった言葉として一人歩きし、これが国民を激昂させ、フランス革命の火付け役となったということを今までの日本ではよく知られているエピソードです。しかしこれも近年、違うのではという説が大半を占めてきましたが映画でもこの言葉は言っていないと明言していますので、これからは無くなるでしょう。
では誰が言ったのか。Jean-Jacques Rousseau(ジャン=ジャック・ルソー1712年6月28日~1778年7月2日) (スイス生まれのフランスの哲学者)は、自叙伝の「告白録」第六巻に、ルソーがワインを飲もうとしたとき、パンがないとワインが飲めないので、パンを探したのだが、なかった。そのとき、ルソーは、ふっと「農民にはパンがありません」といわれて、「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えたことを思い出した、という記事が原典であるといわれている。それは、ルソーが新しい愛人が出来たヴァラン夫人と気まずくなって、マブリ家に家庭教師として行っていた時代1740年頃、であるらしい、と言われている。
また、アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されていると書いています。
どちらにしても、アントワネットとしては迷惑な話です。
「革命」と「パン」 その2
「革命」と「パン」 その2
なぜパンがないのか。
フランス革命があったからパンが無くなったのではなく、フランスは大飢饉に見舞われていました。飢饉で最初に被害を被るのは貧しい人たちで、王族・貴族は多少なりとも蓄えはあったんでしょうね。
以前のメールマガジンで紹介した通りフランスの飢饉は「浅間山の大噴火」です。もう少し詳しく述べると、浅間山ばかりではないようで、1783年(天明3年)3月12日に岩木山噴火、続いてアイスランドのラキ(ラカギガル)火山が大噴火、7月6日には浅間山が大噴火。東西とも火山灰が成層圏に達する規模で日本では天明の大飢饉、ヨーロッパでも同じような大飢饉に見舞われ世界中で餓死者が出ました。
アントワネットの浪費癖は間違いないようで、庶民が苦しんでいるときに「デマ」が飛び交うのもうなずけますね。このデマのせいなのかは分かりませんが、1789年11月15日布告の法令で「フランスのすべてのパン屋は、ただ1種類の良質のパン、すなわち平等パンだけをつくるものとする。違反した場合は禁固刑に処する。」「富裕と貧困は平等の体制からは焼却すべきものであるがゆえに、金持ちは極上小麦の白パンを食べ、貧乏人はふすまパンを食べるということがあってはならない。」と決まったとのことです。
パンの価格はこの時から決まったのではなく、シャルルマーニュ王(768-814)の時代に公定価格が決められ、パン屋が価格を自由に決められなくなってます。フランスと言えば「フランスパン」ですがこのパンが登場する前は「パン・ド・カンパーニュ」(田舎パン)が主流でした。このパンは基本的に小麦粉、塩、水、酵母だけで作られる「素朴パン」ですがなんとこのパンはウィーンが発祥との事。クロワッサンがウィーン発祥を知っている方も多いでしょうが、「リッチパン」のブリオッシュもウィーン生まれ。それとデンマークのデニッシュペストリーもウィーン生まれだそうです。もちろん今の形が最初からウィーンで生まれたのでなく、バターや卵をふんだんに使って作るパンやケーキはハプスブルク家のお気に入りだったようで、その製法が周辺諸国に伝わり現在の形になったようです。前回紹介した「クリストシュトーレン」もハプスブルク家の「リッチパン」製法だったようで、その当時のドイツはハプスブルク家の所有だったからウィーンの菓子といっても間違いにはならないのですが・・・・。
今の世界中のパンはハプスブルク家がもたらしたかも知れないなんて、なんてすばらしいんでしょうね。
クルト・ヨーゼフ・ワルトハイム氏死去
クルト・ヨーゼフ・ワルトハイム氏死去
Kurt Josef Waldheim 1918年12月21日~2007年6月14日
ワルトハイム元オーストリア大統領が死去というニュースが入ってきました。
心臓疾患のため、ウィーンで死去、88歳。
第4代国連事務総長で、元オーストリア大統領を勤めたワルトハイム氏ですが、第二次世界大戦前にヒトラーユーゲントを経てナチス突撃隊の将校を務めた事が問題になったこともありました。世論はナチス戦争犯罪容疑者として酷評し、バッシングを受けましたが英国の戦争歴史学者が調べた結果、ワルトハイム氏が戦争犯罪に直接関与した証拠は見つからなかったということですが世界のメディアの批判は皆さんもご存知の事と思います。
その為かバチカン法王庁以外の国から招待状を受けたことがなく、「さびしい大統領」と揶揄され、国際世論の批判にさらされたワルトハイム氏は再選出場を断念して、政界から退いたという事です。ワルトハイム氏は後日、出版した自伝「返答」の中で、「国際社会からナチス戦争犯罪者呼ばわりされ、私ばかりか家族も苦しんできた」と説明し、「家族をこれ以上苦しめたくない」という理由から再選出馬を断念したと書いてあります。
ワルトハイム氏はウィーン近郊のザンクト・アンドレー=ヴェルデルンで生まれ、その年の11月3日オーストリアが連合国に降伏。第一次世界大戦の敗戦と革命により国事行為を断念したオーストリア=ハンガリー皇帝カール1世がいっさいの権利を放棄し、これによりハプスブルク家は実質的に崩壊しました。
11月16日オーストリア・ハンガリー二重帝国が解体し、ハンガリーが共和制を布告しました。こんな激動の年に生れた氏はナチス突撃隊の将校を務めたという事がやはり茨の路だったんでしょうか。
日本では田中角栄、中曽根康弘、田川誠一、鳩山威一郎が生まれ、世界では南アフリカの黒人解放運動の指導者・大統領ネルソン・マンデラ、第5代ドイツ首相ヘルムート・シュミット、ルーマニア大統領チャウシェスクなどが同い年なんですね。
グスタフ・クリムト、エゴン・シーレが亡くなったのもこの年です。
ワルトハイム氏の大統領時期は1986年から92年の一期6年間だけでした。
私は35年位前にウィーンのシュタット・オパ(国立オペラ座)のオーパンバルに出席したときに国連事務総長であったワルトハイム氏が来賓として出席した光景が思い出されました。
ご冥福をお祈りします。
アルプスのミイラ「アイスマン」その後
アルプスのミイラ「アイスマン」その後
アルプスの氷河で1991年に発見された約5300年前の氷漬けのミイラ「アイスマン」は、オーストリアの研究チームが2001年、X線写真撮影で左肩内部に石でできた長さ約2センチの矢じりがあるのを発見したと発表されました。左肩に矢を受けて動脈に傷を負い、間もなく死んだそうで、発見場所付近では斧も見つかっているので、何らかの争いの犠牲になったのではないでしょうか。
いま、スイス・チューリヒ大などの研究チームが死因の解明のためコンピューター断層撮影装置(CT)で動脈の傷が詳細に分析され、命取りになったことが確認されたそうです。
オーストリア、チロル地方のエッツ渓谷 ( Otzal )で1991年の9月、ドイツ人のカップルがシュナル谷氷河の山稜を登山していたところ、標高 3210m地点の溶け出した氷河から茶色い頭蓋骨の一部が発見され、調べたところツタンカーメンより古い銅器時代の氷漬けのミイラで世紀の大発見でした。エッツ渓谷 ( Otzal ) で発見されたところからこのミイラは「エッツィ(オッツィー)」と名付けられました。
紀元前3300年前というと想像がつきませんが、紀元前4500年前にエジプトで農耕・牧畜生活が始まり、農耕がヨーロッパの内陸に広がっていったのですね。少し下って紀元前3700年、クレタ島で青銅器時代が始まります。では、紀元前3300年前というとエジプト先王朝時代の王「サソリ1世」の墓に象形文字が書かれたのがこの頃だそうで1998年12月にドイツの考古学研究所が発見しています。エジプト第1王朝が興るのは紀元前3100年頃ですからこの「エッツィ」とはどんな人物だったんでしょうね。調べた研究チームによると彼の年はおよそ46歳で、身長は1メートル60センチ、体重は40キロと推定されました。当時の過酷な状況をみると46歳というのはかなりの高齢で、矢じりの痕や斧が落ちていたところを見ると彼は族長かそれに近い位で、争い事に巻き込まれたのではないでしょうか、私の勝手な推測ですが皆さんは如何でしょうか。
そうそう、ご多分に漏れずこの手の話には「ツタンカーメンの呪い」よろしく「エッツィの呪い」があります。始めは2004年、エッツィーの発見者、ヘルムット・サイモン氏 ( 66歳 ) が登山中に発見現場に近い場所で事故死、エッツィーのミイラを始めて検査した考古学者、コンラート・シュピンドラー氏 ( 55歳 ) が硬化症で亡くなり、ミイラを素手で扱った法医学者のライナー・ヘン氏 ( 64歳 ) が交通事故、そのヘン氏を「エッツィ」の眠る場所に導いた登山ガイド、クルト・フリッツ氏(52歳 ) がその後、雪崩れ事故で死亡。また、「エッツィ」を氷から取り出すヘン氏のドキュメンタリーを撮影したジャーナリストのライナー・ヘツル氏( 47歳 ) は脳腫瘍でまたまた死亡、そして「次は自分だ」と笑っていたオーストリアの考古学者、トム・ロイ氏 ( 63歳 ) も自宅で亡くなっていたのが死後、数日してから発見されたという事です。
恐ろしいですね~~・・・。もしかしてこんな記事を書いた私も・・・・・。
日本との姉妹・友好都市
日本との姉妹・友好都市
先の世界大戦から世の中は平和になったかというと、さに有らず、世界各地で未だに戦火が消えることが無く、罪の無い一般市民が苦しんでいます。その一つが人間関係でしょうか?少しでも相手のことを思いやったり理解するだけでも平和な世に一歩近づくのではないでしょうか。そんな思いを世界の人たちは理解しようと外国の友達を作って個人的な国際交流から都市間の国際交流まで、世界中の人たちが友好関係を結んでいます。私見ですが国対国の国際協力は、どうもそうなっている国が少ないような気もしますが杞憂でしょうか。日本でもウィーン市と友好関係を結んでいる所が少なくありません。
今回はそんな友好都市の紹介です。
*まずはウィーン市1区 (Innere Stadt)は平成元年4月5日に東京都台東区と友好都市として結ばれています。もともと区内の小学校音楽部のウイーン訪問を機縁の提携で、いまやウイーン音楽の夕べの開催、オーストリア建国千年を記念しての「ドナウ川千本桜」への参加などで友好関係が19年以上続いています。
*ウィーン市9区(Alsergrund)は兵庫県宝塚市が平成6年10月に結んでいます。女声合唱団など市民交流団が訪れて文化・音楽交流を行ったり、平成7年の震災のときはウィーン市9区からチョコレートやワイン、お見舞金などが届けられたそうです。
*ウィーン市12区 (Meidling)は岐阜県岐阜市が平成6年3月22日に友好都市を結んでいます。
*ウィーン市13区 (Hietzing)は平成7年6月27日に大阪府羽曳野市が友好都市関係を結びました。これは1991年大阪府が開催地になった「国際花と緑の博覧会」をウィーン市が出展したのがきっかけだそうです。そのときに出展したインフォメーションブースを羽曳野市が譲り受け交流がはじまったそうです。
*ウィーン市17区 (Hernals)は平成4年8月に東京都府中市が友好都市に。
*ウィーン市19区 (Doebling)は昭和60年5月に友好都市関係に。ドゥブリングと世田谷には3つの共通点が有るそうで、雄大な川が流れていること、緑豊かな住宅都市であること、文化都市を志向していることだそうで、これが縁で姉妹都市になりました。
*ウィーン市21区 (Floridsdorf)は昭和62年11月2日に東京都葛飾区が友好都市関係に。これは有名な話があって、当時のウィーン市長が、来日する飛行機内で「男はつらいよ」を鑑賞し、人物や家族模様などの人間関係や背景となった土地柄がウィーン市民の気質とウィーン市郊外の風景に似ており、極めて強い印象を受けたことから、友好都市交流を希望してきたそうです。その関係で「男はつらいよ」のウィーン版が公開されたのはご存知のとおりですね。平成13年(2001年)8月17日には、フロリズドルフ区の幹線道路に「カツシカシュトラッセ(葛飾通り)」という名がつけれらました。これは是非見に行かなくてはなりませんね。
*最後にウィーン市22区 (Donaustadt)は平成8年10月21日に東京都荒川区が友好関係を結びました。南千住駅東口広場には「ドナウ広場」、それに続く道路に「ドナウ通り」という愛称がつけられました。すごいですね。今度見に行ってきます。
またドナウシュタット区の道路にも「荒川通り」、「東京通り」という愛称がつけられ、「東京通り」沿いの建物には、「荒川区と友達」と題するモザイク壁画がつくられたそうです、これからウィーンへ行かれる方は是非確認をしてみては如何でしょうか。
オーストリアの国旗 国花 国鳥
オーストリアの国旗 国花 国鳥
このオーストリアの歴史もまる三年が過ぎました。今更ですが、オーストリアの国旗、国花、国鳥について述べていないことに気づきました。その前に、日本の国旗、国花、国鳥についてはご存知ですよね。「日の丸」は太陽が上るイメージ、陽いずる国から出来たもの、国花は「やまざくら」、国鳥は「きじ」です。よく間違えるのが「鶴」ですね。日本の国鳥は「きじ」です。オーストリアはどうでしょう。今まで述べてきたようにオーストリアは永い事「ハプスブルク家」が支配し、ヨーロッパの政治や文化の中心地として、長く栄えて来ましたが第二次大戦後の1955年に永世中立国として主権を回復し現在に至ってます。「国旗」は1945年に制定され、その由来は古く、十字軍の遠征で戦ったオーストリア大公が敵の返り血を浴びた際、軍服の上半身だけが赤く染まり、ベルトから下は白いままだったという故事にちなむとされています。
「日の丸」も赤ですが、オーストリアの赤は「血」ということで私は戦いや侵略と言うイメージが浮かび、日本は太陽がイメージということで、安らぎ、平和と言うイメージが広がります。狩猟民族であるヨーロッパ人は「血」が似合うんでしょうか。
「国花」はエーデルヴァイス(Edelweiss)です。スイスも同じです。映画の挿入歌を思い浮かべますが実際の歌は『Es war ein Edelweiss』といい、第二次世界大戦中、ドイツ軍山岳部隊の兵士を中心に歌われていた歌です。戦争に関わる歌詞は全くなく、エーデルワイスを見て恋人を想う歌になっています。
音楽をお聞きになりたいのならこちらをクリックしてください。
エーデルワイスMP3リンク
歌詞はこのようになっています。
1. Ganz einsam und verlassen
An einer Felsenwand,
Stolz unter blauem Himmel
Ein kleines Blümlein stand.
Ich konnt' nicht widerstehen,
Ich brach das Blümelein,
Und schenkte es dem schönsten,
Herzliebsten Mägdelein.
|: Es war ein Edelweiß,
Ein kleines Edelweiß,
Holla-hidi hollala,
Hollahi diho. :|
2. Sie trägt es treu in Ehren
An ihrem Sonntagskleid.
Sie weiß, daß dieses Sternlein
Ein Männerherz erfreut.
Sie trägt es mir zuliebe,
Und ich bin stolz darauf,
Denn diese zarte Blume
Schloß einst zwei Herzen auf.
|: Es war ein Edelweiß . . .
3. So einsam und verlassen,
Wie dieses Blümlein stand,
So standen wir im Leben,
Bis Herz zu Herz sich fand.
Ein Leben voller Liebe
Und Glück und Sonnenschein
Hat uns gebracht das kleine,
Einsame Blümelein.
|: Es war ein Edelweiß . . .
tr. Frank, 2000
Forlorn and all abandoned,
On a cliff face that loomed
High, reaching for the blue sky,
A tiny flower bloomed.
I just could not resist it,
I picked it where it grew,
And gave it to the dearest
That my heart ever knew.
|: It was an edelweiss,
One little edelweiss,
Holla-hidi hollala,
Hollahi diho. :|
She wore with pride and honour,
It on her Sunday best.
She knows this little, tiny star
A man's heart cheers the best.
Just for my sake she wore it,
And it does make me proud,
'cause of this little flower,
Two hearts each other vowed.
|: It was an edelweiss . . . .
So lonesome and abandoned,
As this small flower stood,
So were our lives forlorn
Till two hearts joined for good.
A life of love forever
With luck and shining sun,
Is what this flow'r presented,
What it for us has done.
|: It was an edelweiss . . . .
1.ひたに寂しく
人知れぬ岩肌に
青空の下 気高く
咲いていた一輪の小花。
僕は衝動を留め得ず、
その花を折った。
そして世にも美しい
愛する娘に送ったのだ。
(繰り返し)
それはエーデルヴァイスの花だった。
一輪の小さなエーデルヴァイス。
ランラララン ランラララ
ランラララン ララ
2.彼女が大事そうに
晴れ着の胸に抱える花。
彼女は知っていた、
その星形の花を男が喜ぶと。
だから僕の元に持ってきた。
それは僕の自慢の種。
何故なら この繊細な花が
嘗て二人の心を結び付けたから。
(繰り返し)
3.お互いを見出すまでは、
この小花がそうであったように
いとも寂しく孤独に
僕達は人生を過ごしていた。
愛と幸福と
陽光に満ちた人生を
僕達にもたらしたのは
この孤高の小花だった。
(繰り返し)
「サウンドオブミュージック」で歌われているのはこちらです。
エーデルワイスの歌リンク
http://www2.plala.or.jp/dontak/flow18L.html
♪ (エーデルワイスの歌)♪
Edelweiss, Edelweiss,
Every morning you greet me.
Small and white, clean and bright,
You look happy to meet me.
Blossom of snow, may you bloom and grow,
Bloom and grow forever.
Edelweiss, Edelweiss,
Bless my homeland forever.
(オスカー・ハマーシュタイン作詞、リチャード・ロジャース作曲)
国鳥はツバメ(燕) Swallowです。日本では、もっともふつうにみられるツバメです。ツバメ科の鳥は世界じゅうに分布し、群れでくらし、集団営巣をする種がいることから、国鳥になったのでしょうかね。
ウィーン会議 外伝
ウィーン会議 外伝
外伝とはおこがましいタイトルですが、ウィーン会議自体は今更、お話することもないとは思いますが、簡単に説明しておきます。ウィーン会議とは、1814年9月1日から翌15年6月にかけてフランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、開催されました。ご存知のようにナポレオンがエルバ島脱出の一報が届くまで延々と続いたのですが、昼の会議は各国のエゴの大合唱で中々まとまらず、各国の代表は貴族が多いためか夜は夜で大宴会を催し、この様子が「会議は踊る、されど会議は進まず」と揶揄されたのです。この大宴会も出費はオーストリア側であったため莫大な金額が湯水のように消え去っていったわけですがオーストリア側の面子もあったのでしょう、嫌とは言えなかったんでしょね。
元々この様な不始末はフランス側に非があるのですが、フランス代表タレーラン=ペリゴールの天才的外交手腕が炸裂、まず巧妙に立ち回って会議への出席を実現し、敗戦国であるフランスの戦争責任の大半を回避させることに成功してしまったのです。(恐るべしタレーラン)夜な夜な、宴会も時が立つにつれマンネリ化し、フランスで"おいしいチーズ"と言えばブリー・ド・モーであり、「ブリーこそ世界一!のチーズなり」と自慢したばかりに、これに激しく反駁したのがイギリス代表団の一人カースルリーグ卿。「スティルトン」こそ世界一のチーズなり。と一歩も譲らない一方、オランダのフォーク男爵も「リンバーガー」こそ、世界一と自慢するなど、もめるばかりで決着がつきません。各国の代表も負けじとばかり自国のチーズの自慢話になり、とうとう、どこの国のチーズが世界一なのかを競う羽目になったのです。30カ国から52種類のチーズが持ち寄られ、品評会が行われました。このとき選ばれたのがフランスの「ブリ・ド・モー」であり「チーズの王様」と呼ばれるチーズなのです。フランスは敗戦国としての面目を保つと同時に、ブリー・ド・モーが世界的に有名になったとのことです。この「ブリ・ド・モー」から「カマンベールチーズ」が生まれたのです。
◎オーストリアのコラムにフランスのチーズでもないんでしょうが、日本では料理や菓子の世界で一般的によく使われているし日本製のカマンベールも多いことから、今回は【食材あれこれ・・・・・】でも紹介したいと思います。
◎Talleyrand-Perigord タレーラン・ペリゴール 政治家・外交官
[帝国大侍従長(1804年)・帝国代理選帝候(1806年)・ベネヴァン大公] [オータン司教(1789年~91年)・外務大臣(1797年 ~ 1807年、1815年)] (1754年2月12日、生誕 ~ 1838年5月17日、パリで病死)
美食家であり、大料理長カレームを一時的に雇ったこともあった。そして美食を武器にウイーン会議をはじめ国際交渉で成功を治めた。
ニューイヤーコンサート
ニューイヤーコンサート
新年早々のオーストリアは全世界で視聴されているウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートではないでしょうか。(Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker)
これは毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホールで開かれるコンサートのことで、おもにシュトラウス一家のワルツやポルカなどが演奏されることで有名です。その映像ライブが世界各国に中継され、12時間も飛行機に乗って出かけなくても、日本でも見られるというのはなんとも便利な世の中になってきたものですね。
このコンサートは1939年12月31日にクレメンス・クラウスの指揮により初めて開催され、1941年1月1日の第2回からは元旦の正午に開催されるようになったそうです。また日本人の小澤征爾氏が2002年に指揮者となったのも日本人ファンを増やすきっかけとなったものです。
また歴代指揮者をあげると
クレメンス・クラウス, 1939, 1941-1945, 1948-1954
ヨーゼフ・クリップス, 1946-1947
ヴィリー・ボスコフスキー, 1955-1979
ロリン・マゼール, 1980-1986, 1994, 1996, 1999, 2005
ヘルベルト・フォン・カラヤン, 1987
クラウディオ・アバド, 1988, 1991
カルロス・クライバー, 1989, 1992
ズービン・メータ, 1990, 1995, 1998, 2007
リッカルド・ムーティ, 1993, 1997, 2000, 2004
ニコラウス・アーノンクール, 2001, 2003
小沢征爾, 2002
マリス・ヤンソンス, 2006
ジョルジュ・プレートル, 2008 (予定)
となっています。音楽ファンにとってはたまらないメンバーでしょう。このマガジンは12月に書いていますので今年の『ジョルジュ・プレートル』氏の指揮はいかがだったのでしょうか。この演奏会での楽しみはなんといってもアンコール曲で演奏される『美しく青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』のシュトラウスの親子曲でしょうね。(すいません、私の好みなのであしからず)
なお、美しく青きドナウとラデツキー行進曲が演奏会のラストにアンコールで必ず演奏されるようになったのは第二次大戦後です。『ラデツキー行進曲』においては聴衆からの自発的な手拍子でしょうね、この手拍子が演奏者と観客との一体感を生み、この手拍子がしたいためにプレミアチケットを手にしたいのは私だけでしょうか。
ただし、2005年のニューイヤーコンサートは、直前に起きたインドネシア・スマトラ島沖の地震、津波災害への支援を進める内容の挨拶が第2部の1曲目の後に行なわれ、恒例となっているラデツキー行進曲の演奏は行われなかったそうです。
寒い冬にはグリューワイン(Glühwein)
寒い冬にはグリューワイン(Glühwein)
寒さが厳しくなってくると思い出すのが「グリューワイン」です。「グリューワイン」がオーストリアの歴史??と、どう関わってくるのかと言われると・・・・、まったく関係ありません。でもこの時期になるとオーストリア人にとって、無くてはならない(?私だけ?)生活の一部なので、知ったかぶりの紹介です。「食材あれこれ・・・・・」で紹介すれば良かったかも知れませんが、気にしないでください。
まずはどこの国ではじめて飲まれたのかというと・・・・分かりません(笑)寒さ厳しい地域では自然発生的に生まれたものでしょう。もともとは赤ワインを温めて飲んでいたようですが(?)アルコールを温めて飲むというのはどこの国にもあるようで、日本でも焼酎のお湯割り、ウイスキーのお湯割り、日本酒の燗酒も忘れてはなりませんが、ドイツにはホットビールがあるようです。決して缶(燗)ビールではありません。
冗談はさておき、ワインの北限がドイツなので寒さ厳しいところからドイツが発生の地かもしれません。勿論オーストリア・アルプスの地域では昔から飲まれていました。日本ではドイツやフランスのVin-choud(ヴァンショウ)がよく知られていますがオーストリアの「グリューワイン」の話題は皆無ですね。でもよく飲まれていることは確かで、オーストリア人でも、わが国が最初に作ったと一部では信じられているようです(?)
「グリューワイン」の基本的なレシピは簡単なので是非、作ってみてください。
赤ワイン 適量 (高級ワインである必要ありません)
丁子(クローブ)1ヶ (入れすぎると薬臭くなる)
レモンの皮 少々 (白い部分は苦味があるので削除)
シナモンスティック (一人前で 1/3本位、香り好きな方はもっと多めも可)
砂糖 適量 (少し甘めのほうがベストかもしれません)
少し熱めにしますが沸かし過ぎないでください、アルコール分が飛ぶとおいしくありません。そのために電子レンジを使用される方もいますが、これでもいいでしょう。(私は試したことがありませんが・・・・)
オーストリアには、このスパイスがティーバッグになって売っていますがドイツ製が多いですね。やはりドイツではよく「グリューワイン」が飲まれているのでしょうか。
よくフランス人は子供のころからワインを飲んでいるといわれますが「子供用グリューワイン」もあるのです。勿論アルコールフライですが・・・、当たり前ですよね。キンダープンシュ(Kinderpunsch)といってアップルジュースやオレンジジュースに「グリューワイン・スパイス」を加えて作ります。
白ワインの「グリューワイン」もあります。Weisser Gluehweinといいます。あとよく飲まれるのがホットラム酒ですね、これは「グロッグ(Grog)」と呼ばれ、これもよく温まりますね。
これは大航海時代、イギリス海軍のエドワード・バーノン提督が、船員がラム酒を飲みすぎて酔っ払ったものがいるため、水で割ったラム酒を配給することにしたのです無論、船員には大不評ですが逆らうわけにもいかず、提督のあだ名が"Old Grog"と呼ばれていたことから、この酒を"Grog"と呼ばれるようになったのです。
標準的なレシピ
ダーク・ラム 45ml
レモン・ジュース 15ml
角砂糖 1個
シナモン・スティック 1本
クローブ(丁子)を1~2粒を浮かべてもよい
熱湯 : 適量
はじめに書いたホットビール、グリュービアー(Glübier)があります、今年は日本のビール会社が流行らせようとしているようですが、日本では如何なものでしょうか。スタウト系の黒ビールで作るのですがあなたはチャレンジしてみる勇気がおありですか?でも先ずはどれかを試されてから自分なりのホットアルコールを作ってはいかがでしょうか。薄めることでアルコール度が低くなるので、貴方はどんなお酒でこの冬を過ごされるのだろうか。このような些細な出来事がオーストリアの歴史の一部となっていくのですね。
今は常識、手洗いの励行
今は常識、手洗いの励行
飲食を生業にしているものは、衛生に関しては厳しく律しています。お客様に対し、食中毒を起こさないためにも就業前にきちっと手洗いをするのは子供でも知っている常識ですね。でも、160年前のお医者さんは手を洗わないで手術をしたり、検診などをしていました。当時の医療従事者は神聖な仕事をしているものの手が汚れていることは無い、と反発していました。また患者を診るたびに手を洗うなんて面倒だと言っていたりもしました。今思えばたった160年前のお医者さんは不潔だったんですね。
この問題を解決したのが「感染制御の父・イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis、1818.7.1生~1865.8.13没)」と言われています。
彼は裕福なドイツ系商人の第5番目の子供として、ブダ(ブダペスト)の商業地区タバンに生まれました。ゼンメルワイスは法科大学に入るためにウィーンを訪れますが、そこで彼は医学に興味を持ち医科大学に進学したのです。1841年、再びウィーンに戻り、第二ウィーン医科大学に入学し、卒業後もウィーンに残り、マギスター(Magister)の学位を取得し、ウィーン総合病院第一産科クリニックの助手になり、そこで教育の仕事にも携わっています。仕事先である第一クリニックの産褥熱による死亡率が13.10%であるのに対し、第二産科クリニックの死亡率はわずか2.03%の結果を見て原因を調べ始めました。同じ病院内での死亡率の違いを不思議の思った彼は、親しくしていた友人が、死体解剖の授業中に過ってメスで指を切ってしまったことから感染症にかかり、死亡してしまったのです。彼の死体を解剖したところ、病気の原因は、産褥熱で死亡した女性患者と非常に似ていることがわかったのです。彼の結論は「産褥熱は接触感染の病気であり、医療従事者に手の消毒を義務づけることでその発症率を激減させることができる」と言うことを証明して見せました。
しかし産褥熱は予防不可能な病気であると信じる上司や他の医者からも反対にあい、ウィーンを去るわけですが故郷のハンガリーに戻ったゼンメルワイスは、1851年にペストにあるSt. Rochus病院の産婦人科病棟に勤めます。手と医療器具を洗浄するという彼の消毒法によって、同病院の産褥熱による死亡率は0.85%にまで下がり、この考え方は瞬く間にハンガリー国内に広がりました。
1861年、ゼンメルワイスは、自らの発見を「DieAetiologie,der Begriff unddie Prophylaxis des Kindbettfiebers(産褥熱の病因、概念及び予防法)」という本として上梓しましたが医学界からは認められませんでした。しかし最終的には彼の学説の正しさは立証されました。権威主義的な学界により科学の発展が遅れたため命を落とした沢山の妊婦がいたのは残念でなりません。
病原菌の存在は知られていましたが神聖な医者の手に不浄な物が着いているわけがないと、うそぶいていた当時の医者は彼の偉業をどう思っていたのでしょうね。
ハプスブルク家最後の時代に、「産めよ増やせよ」と言っていた家訓が活かされたのでしょうか。
オーストリアの歴史の一ページでした。
メンデルによる遺伝の法則の発見
メンデルによる遺伝の法則の発見
オーストリア関連(というよりも、ハプスブルク家ですね)の偉人にはまだまだ有名な人がいました。
メンデルです。植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したことで有名で、遺伝学の祖と言われた人です。もちろん皆さんはご存知ですよね、昔を思い出してもらうように簡単におさらいです。
メンデルの略歴
グレゴール・ヨハン・メンデル(独:Gregor Johann Mendel 、1822年7月20日 - 1884年1月6日)はハインテンドルフ(現チェコのヒンチツェ)の農家に生まれた。オーストリアブリュン(現在のチェコ ブルノ)の聖アウグスティノ修道会の修道士になる。
1851年、修道院長は彼の才能を認め2年間ウィーン大学で数学と科学を学ぶことを許可、頭が良かったんですね。彼は大学で主に数学(統計学)と物理学を学んだそうです。それが後に「えんどう豆」を使った統計学に役立ったのです。1865年、メンデルは7年間にわたりエンドウ豆を栽培し、遺伝の実験の結果をまとめ、ブルノ自然科学会で発表したが彼の統計学を駆使した論文を誰も理解できなかったのです。当時の科学の最大の話題は、ダーウィンの進化論(種の起源)であり、エンドウ豆がドウのコウのなんかはどうでも良かったみたいですね。1884年1月6日、研究成果は認められることなくブリュンにて没。可哀そうですね、今では知らぬものさえいないのに当時は無名だったんですね。有名なエンドウ豆の交配実験は1853年から1868年までの間に行われました。今では誰でも知っている事実です。
映画「エリザベス・ゴールデンエイジ」
映画「エリザベス・ゴールデンエイジ」
映画「エリザベス・ゴールデンエイジ」が公開されました。ご覧になった方も多い事かと思いますが、この映画は高校程度の歴史の知識があれば十分に理解できる面白い映画でしたが、授業をサボった方には理解に苦しむ映画だったと思います。エリザベス1世の在位は1558年~1603年(1533年生1603年没)の45年間で、英国は弱小国家から世界の英国として君臨していくのですが、それではエリザベス1世の時代オーストリアはどういう時代だったのでしょう。
1562年、神聖ローマ帝国フェルディナント1世の間の和約が成る。ハンガリー 全土がオスマン帝国領となる。
1564年、フェルディナント1世没。61歳。マクシミリアン2世が即位する。神聖ローマ皇帝。
1576年、マクシミリアン2世没。49歳。神聖ローマ皇帝。ルドルフ2世が即位する。
そして、日本はどんな時代だったんでしょうね。
1558年、木下藤吉郎(秀吉)が、織田信長に仕官。
1560年、今川義元と織田信長の桶狭間の戦い。
1582年、天正少年遣欧使節がポルトガル船に乗って長崎港を出港する。
1582年、織田信長が明智光秀に急襲された、本能寺の変。
1598年、豊臣秀吉が伏見城で病没。62歳。
1603年 徳川家康(62)が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。
こんな時代でした。
簡単な歴史年表ですが、オーストリアを語るには他国の歴史も勉強して、どんな時代だったかを認識する必要があります。映画といえば、今度「幻影師アイゼンハイム」という映画が上映されます。これは19世紀の終わり、ウィーンでの物語で「皇太子レオポルド」が横糸に現れ、どんな物語が展開するのでしょうか。映画ですから、面白おかしく創られいるでしょうが背景に広がる世紀末ウィーンを堪能してみては如何でしょうか。(撮影場所は当時の面影が残るチェコだそうです)もちろん、歴史を勉強していけば更に楽しく鑑賞できること請け合いです。
ハプスブルク家とヨーロッパの貴族
ハプスブルク家とヨーロッパの貴族
ハプスブルク家はご存知の通りの名門家。でもヨーロッパにはそれ以上の沢山の名家が興り栄え、そして滅び去っています。栄枯盛衰は世の習いとはいいますが、空しいですね。
オーストリアにはハプスブルク家のほかにはバーベンベルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家 などあり、お隣のドイツ系にはフランケン家、ヴェルフェン家、ヴィッテルスバハ家、リヒテンシュタイン家、 シュヴァルツブルク家など等、枚挙がありませんがマリアテレジアが一番苦労したフランス系に先ずはブルボン家、そしてカペー家、ヴァロア家、コンデ家など、フランスにも沢山ありますね。なんといってもハプスブルク家が一番影響を受けたと思うイタリアにも紀元前から名家があり、世界の文化や歴史に於いて大いに影響を与えました。何といってもハプスブルク家は神聖ローマ帝国でしたからね。そのイタリア系の名家にはメディチ家 、ヴィスコンティ家 、エステ家 、ボルジア家、サヴォイア家 など、名家ぞろいですね。
そのイタリアの文化や歴史はオーストリアの文化を語るのに欠かせませんね。シェーンブルン宮殿の庭の奥にはローマ帝国の廃墟をわざと作らせている事から、ローマへの憧れを感じます。オーストリアワインも元々はローマ兵が進行してきてオーストリア各地にブドウの苗を植えて行き、現在に至っています。
食で言えばフランス人の料理人がオーストリア料理や菓子に影響を与えていきましたが、そのフランスにしても料理はイタリアのメディチ家がフランスに伝えたものでした。
名家は数百年にわたり栄え滅びましたが、世界で一番長く続いている、名家をご存知ですか?
それは日本の天皇家です。その起源は紀元前660年に即位した神武天皇から数えて皇紀2668年経ちます。この皇紀には異論のある人もいますがどちらにしてもとても長い一家です。オーストリアの文化を語るのにもいずれは、これらのヨーロッパの名家を紹介していかなくてはならないでしょう。でも私には語るに難しい事ばかりなので、簡単なエピソードを交えていつもの【歴史??】を紹介していきたいと思います。
コンスタンツェ・モーツァルトは悪妻か?
コンスタンツェ・モーツァルトは悪妻か?
コンスタンツェ・(Constanze Mozart、1762年1月5日-1842年3月6日)は、ご存知の通りモーツァルト奥様です。
巷間では、悪妻の代名詞として語られていますがほんとにそうでしょうか。彼女の生存していた18世紀から19世紀ではどんな時代だったのでしょうね。モーツァルトが1791年に亡くなっていて、翌年1792年にフランス革命戦争があった時代です。モーツァルトが子供時代、お嫁さんにしてあげると言ったアントワネットが処刑されました。オーストリアといわず、ヨーロッパ中が混乱していた時代ですね。
コンスタンツェは本当に悪妻だったんだろうか。私が推測(当てにならない)した所によると、これは後世のモーツァルトファンの憶測ではないだろうか。
その第一番目に、葬儀をないがしろにしたため共同墓地に葬られたからモーツァルトの墓がどこにあるか未だに解らないからなのか。第二番目に、コンスタンツェはモーツァルトが死んだ時、別荘で遊んでいたと言う事ですが、もともと病弱でモーツァルトの死の前にコンスタンツェも病に倒れており、モーツァルト自身が別荘での療養に行かせたようです。コンスタンツェ自身は夫の死の前に帰宅していたようです。第三番目は、コンスタンツェは浪費家だったと言う事実。ほんとにそうでしょうか。いまの有名芸能人もそうですが収入が多い分それなりの浪費をする人も少なからずいます。モーツァルトも当時の有名芸能人、晩年は収入もかなり有ったようで、それに見合うような金額を消費していたから、「コンスタンツェは浪費家だ」的な噂が流れたのかもしれません。
モーツァルトははじめ、コンスタンツェの姉アロイジアに夢中になっていたのをコンスタンツェが惚れて結婚したものだからモーツァルトはコンスタンツェにはあまり興味が無いのではないかという噂。モーツァルトとコンスタンツェの間には病死した子供を含め6人が生まれ、成人した子供は二人います。そして旅に出るとコンスタンツェ宛てのラブレターを出しそれが残っています。モーツァルトの死後、コンスタンツェは再婚しているので当時の倫理観では不貞だともいわれています。いろいろ考えてみると、どうも悪妻説は後世の創作かも知れません。
晩年のコンスタンツェはサルツブルクのドームにほど近いミハエル広場に面した住居に暮らし、住居跡に「晩年のコンスタンツェの住居跡」という記述がありますのでサルツブルクへお出での際は是非探してみてください。
ハプスブルク帝国の落日
ハプスブルク帝国の落日
歴代のハプスブルク皇帝の中でもフランツ・ヨーゼフ皇帝は第一の名君と私は思っていますが、このハプスブルク最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ皇帝だが、この皇帝ほど悲劇に見舞われた皇帝もいないのではないだろうか。フランツ・ヨーゼフは伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位します。若き皇帝は非常に勤勉で時間に正確で、規則正しい生活態度であったが、皇帝になって以後は死の直前まで、日々3時間睡眠で激務に当たったという有能な皇帝であったようです。69年間の治世の中で、よく知られているのがウィーン市内を囲んでいた城壁を撤去し、リングと呼ばれる環状道路が作られ、それを囲むように歴史的な建造物による都市計画が行われ現在のウィーンを作り上げたという事をご存知の方も多い事でしょう。
しかしこの皇帝は呪われたのではと思うほど不幸が続きます。
家庭的には・・・・
1886年ルードヴィッヒ2世の溺死
1889年にマイヤーリンクで長男ルドルフは、マリア・ヴェッツェラと謎の心中。
1867年皇帝の弟マクシミリアンはメキシコ皇帝に擁立されたが逮捕され、銃殺。
1897年エリザベートの妹、ゾフィーの焼死
1898年エリーザベトが、旅先でイタリア人無政府主義者によって暗殺。
1914年フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺。(サラエボ事件)
第一次世界大戦の引き金となりハプスブルク帝国の崩壊を導く
政治的には・・・・
1859年:北イタリアのハプスブルク領を失う。
1866年:プロイセンに破れ、ドイツ方面への影響力を失う。
1867年:ハンガリーの暴動 オーストリア=ハンガリー二重帝国承認
こんな悲劇を受けた皇帝が拠り所にした人が、エリーザベートが紹介した舞台女優、カタリーナ・シュラットでした。彼女とはとても親しく、しばしば会話を楽しんだという事でしたがそれ以上の関係でエリーザベートも密かに望んだようです。ハプスブルク帝国はドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、クロアチア人、スロヴェニア人、ルーマニア人などが生活していて、その帝国を支えてきたフランツ・ヨーゼフ皇帝ですが最後は歴史の波に押し流されていったのです。
クーデンホーフ家
クーデンホーフ家
クーデンホーフ家といえば以前【オーストリアの歴史??】の第二回に書いた『カサブランカ』の中でリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の事を書きましたが彼の甥っ子であるミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギー(Michael Coudenhove-Kalergi 1937年 - )がまだ存命で日本に住んでいます。
クーデンホーフ家と光子、その家計図について簡単に述べると・・・。
Coudenhove,Franz Heinrichの父
Coudenhove, Heinrichの母/旧姓=Kalergi
青山 喜八 光子の父
青山 津禰 光子の母(つね)
青山 サダ 光子の姉
青山 ミツ クーデンホーフ光子1874年7月16日 喜八の三女
Coudenhove,Heinrich伯爵 1859年10月12日~1906年5月14日
Coudenhove,Maria Tecla 伯爵の妹
Coudenhove,Mitzko(光子)伯爵夫人1874年7月16日~1941年8月28日没
Coudenhove-Kalergi,Hans 1893年9月16日/光子の長男
Coudenhove-Kalergi,Richard 栄次郎1894年11月16日/光子の次男
(汎ヨーロッパ主義を唱える)
Laurent,Coudenhove,Ida 女優 Richard栄次郎の妻
Coudenhove,Gerolf 大使館通訳 1896年/光子の三男
Coudenhove,Elisabeth 作家 1901年/光子の長女
Coudenhove,Orga 光子の次女
Coudenhove,Ida 光子の三女
Coudenhove,Karl 光子の四男
Coudenhove-Kalergi,Michael 画家1937年/Gerolfの三男/光子の孫
ミツコの孫たちは世界中で活躍していますがこれもミツコ自身が身を挺して夫の気持ちを子供伝え、母の思いを子供は見ていたのでしょう。
クーデンホーフ=カレルギー伯爵は二重姓(ダブルバレル)になっていますが、光子と結婚した頃はクーデンホーフ伯爵だったそうです。伯爵は1906年に急死しますが、クーデンホーフ=カレルギー伯爵に正式に改名したのが1903年だそうです。伯爵の妹マリア・テクラの嫁ぎ先で彼女の夫が母方の姓を残したことに影響され、自分も母方の姓である「カレルギー」姓を残したそうです。
ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー(青山光子)青山みつと言われた、後のクーデンホーフ・ミツコは、青山喜八とその妻津禰(つね)の三女として東京市牛込区納戸町で1874年(明治7年)7月16日に生まれました。この明治7年という年は、日本では東京に初めて導入された大区小区制で牛込区という名前がついた年で、東京警視庁が設置され、読売新聞が創刊され、京橋、銀座などにガス灯が点火された年でもあるのです。オーストリアでは4月5日にヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」がウィーン劇場で初演された年でもあるのです。 ミツコとは関係有りませんが、読者の方々にはどんな年代だったかを理解してもらえればと思い小さな情報でした。
青山家はもともと油屋であったが、同時に骨董商を営み、こちらの方が繁盛していたようです。この地では青山家は大地主であったようですね。『みつ』はお嬢様だったのです。
1892年(明治25年)2月、オーストリア=ハンガリー二重帝国代理公使としてハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が赴任してきました。毎日のように馬を乗りまわしていたハインリッヒが、青山家の店先で落馬した際にミツコが救護したことが二人の馴れ初めともいわれている事は皆様も聞いた事があるかも知れません。その甲斐甲斐しい働きぶりに心を打たれたハインリッヒに請われ、ミツコはオーストリア公使館に女中頭として奉公に上がることになったというのですが、困った人がいたら助け、甲斐甲斐しく振舞う人はヨーロッパにいなかったのでしょうかね。それとも伯爵のほうがホームシックになりかけていて、ごまかす為に仕事よりも馬を乗り回す日々が続いたのでしょうか。
東京都公文書館に残る史料によれば、ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと青山みつは1892年(明治25年)3月16日に結婚したことになっています。前回にも記したように ハインリッヒの来日が1892年の2月ですから僅か1ヵ月後とはあまりに早い結婚ですね。翌年の1893年(明治26年)9 月16日に長男ハンス(光太郎)が出生しています。今でこそ外国人と結婚するのに抵抗はなくなりましたが、当事としてはどんな事情があるにせよ勇気のいる決断でもあるし、スピード結婚も『どうして』という疑問が残りますね。代理公使であるハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が結婚したわけですから日本国として無視出来なかった事でしょう、この結婚が、公式の国際結婚第1号であっただろうとも言われています。そして二人の間には光太郎(ハンス)のあとに、栄次郎(リヒャルト)が生まれています。
1896年(明治29年)ハインリッヒにオーストリア帰国命令が出、日本を離れる事になったミツコは悩んだすえ、夫と共にオーストリアへと渡る決心をします。何の情報も無い時代の『ミツコ』はどんな思いで決心したのでしょう。この時、明治天皇の皇后(昭憲皇太后) は宮中にミツコを呼び「遠い異国に住もうとなれば、いろいろと楽しいこともあろうが又随分と悲しいことつらいこともあろう。しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように。」と令旨を賜ったそうで。当事の日本人の天皇に対する忠誠心は絶大なものでこれを生涯の支えにしたのかもしれません。
帰国したハインリッヒ伯爵は、父が死んでクーデンホーフ=カレルギー家の当主となり、外交官を辞して領地の経営に専心することになりました。クーデンホーフ=カレルギー伯爵領はオーストリアのボヘミア地方(現在のチェコ)とハンガリーにあったが、一家はボヘミアのロンスペルク城に住みました。このロ
ンス ペルク城での幸せな日々の間、二人はさらに5人の子供が生まれたのです。
このロンス ペルク城時代に語学を勉強し、当主の婦人として幸せな日々を送っていましたが、一時肺結核を発病し、一家は治療の為、南チロルのアルコに移り住んだ事もあります。しかし、1906年5月14日、夫ハインリッヒの突然の死がミツコを悲劇に陥れるのです。外国人である彼女は親戚中からのけ者扱いにされるのです。
31歳のミツコは夫ハインリッヒの突然の死により、か弱き日本女性からマリアテレジアのような強い女性へと変身を遂げるのです。ハインリッヒは遺言書で全ての財産をミツコに相続させると書き残していた為
に親族一同が騒然とし、訳のわからない東洋人などに伯爵家を渡してなるものかとミツコに譲渡を迫るがミツコは毅然として親族の起こした裁判に立ち向かい勝利します。夫の遺産を引き継ぎ、子供たちをウィーンの名門学校に入れ、伯爵夫人として社会的に活動を始めるのです。日本という国を知らしめすためにも彼女は社交界へとデビューするわけですが日露戦争でもって大国ロシアを打ち負かした日本とはどんな国なのかミツコは注目の的でした。そんな彼女をイメージして『ゲラン』という香水会社が<Mitsouko>(ミツコ)という香水を出したという説が流布されていますがこれは全くの誤解であり、クーデンホーフミツコとも関係は有りません。実はこの香水が発売された1919年当時のベストセラーであった小説『ラ・バタイユ』の中での日本の海軍総督の妻ミツコが見せた情熱的な生き方に感銘しジャック・ゲランが命名した香水なのです。つまり実在の人物の名前ではなかったのですね。ともあれミツコは社交界の花形であり、日本大使(民間)の役目も果たしていたようです。
この社交界に二男のリヒャルトも同行していてそこで当時の大女優、イダ・ローランと知り合ったきっかけになったのです。息子のリヒャルトとはかなりの歳の離れたイダにはミツコも大反対だったようで、その後リヒャルトは駆け落ちするのですが映画「カサブランカ」のモデルになった事は有名な話です。しかし映画ですから大分デフォルメされてはいますが・・・・・・。
第一次世界大戦が勃発してオーストリアとは敵国同士になり、オーストリアにいた日本人は戦火を逃れ帰国したのですがウィーンに残ったミツコの一家は大変な目に合うのですが彼女なりに赤十字活動で貢献します。長男のハンスと三男のゲロルフはオーストリア兵として参戦したがリヒャルトは胸の疾患により徴兵を免れたとのことです。イダ・ローランと駆け落ちした次男リヒャルトは著書『パン・ヨーロッパ』に
より一躍欧州文壇の寵児となり、後日これを聞き及んだミツコはリヒャルトの活躍を喜んだということです。彼女も「欧州連盟の母」という名前で知られるようになったが静かな余生を送ったとの事です。
今でも売られているゲランの香水<Mitsouko>(ミツコ)もこの激動に中に活躍したクーデンホーフミツコと重なったのでしょうね、日本では未だにクーデンホーフミツコと香水<Mitsouko>を同格扱いしています。1941年8月7日、とうとう日本の地を踏むことなくミツコは死去(享年67)しますがミツコを看取ったのはミツコの次女・オルガだけだったそうですが、何か寂しい思いがしてくるのは私だけでしょうか。
長々と書いてきた「クーデンホーフ家」。日本とオーストリアの掛け橋となった、ミツコの壮絶なる人生を振り返り今年のオーストリア年を成功させようではありませんか。
オーストリアのドイツ語、知ったかぶり
オーストリアのドイツ語、知ったかぶり
オーストリアはドイツ語が公用語となっていますが、お隣ドイツのドイツ語と違い、かなり訛りが多いドイツ語です。これは日本でも同じ事なのだから致し方ないことですね。大阪弁が東京で通じない事もないように、オーストリアの言葉がドイツ人に通じない事もないのですが少し嫌な顔をする人もいない訳ではないでしょうね。私の経験談ですが、スイスのチューリッヒでおまえのドイツ語はおかしいと言われましたが、スイス弁ドイツ語を話すスイス人には言われたくないですね。
オーストリア国内だけでもウィーン語(と、言ってもいいのでしょうか?)チロル語、ケルンテン語、シュタイアーマルク語など様々。とりあえずオーストリア語として一括りしておきましょう。
オーストリアにはイタリア文化やフランス文化の影響もあり外来語もかなり見られるようです。カフェでメランジェというとミルクコーヒーですが、これなどフランス語で混ぜたという意味。ウィーン菓子にもドボス、シュトゥルーデル、パラチンケンなども外来語です。何よりもドイツ語と違ってまずは『S』がズと濁らずにスと発音、『W』もヴと発音しなく、例えばWIENはヴィーンでなくウィーンとなります。また挨拶も「こんにちは」のドイツ語の Guten Tag (グーテン ターク) はオーストリアではGruess Gott (クリュス ゴット)、「やあ!」という挨拶も Hallo (ハロー) Servus (セアヴス)と変わってきます。私は言語学者でないので墓穴を掘る前に食文化のページらしく食物の違いです。長くなりそうなので次号でオーストリア語とドイツ語の違いを述べます。
それではオーストリアとドイツでの食べ物の言い方の違いです。
オーストリア語 ドイツ語 日本語
Bëschel Luengerl, Lungenhaschee とくに仔牛の肺や心臓
Blunzen Blutwurst 血のソーセージ
Eierspeise Ruhrei スクランブルエッグ
Erdapfel Kartoffeln ジャガイモ
Faschiertes Hackfleisch ミンチ肉
Fisolen Gruene Bohnen インゲン
Frittaten Pfannkuchenstreifen 千切クレープ(スープの実)
Germ Hefe イースト
Gugelhupf Napf-, Rodonkuchen クグロフ
Häuptelsalat Kopfsalat レタス
Karfiol Blumenkohl カリフラワー
Karotte Möhre 人参
Kohlsprossen Rosenkohl メキャベツ
Kren Meerrettich 洋ワサビ
Kukuruz Mais とうもろこし
Leberkäse Fleischkäse レバーケーゼソーセージ
Marillen Aprikosen アンズ
Mehlspeise Sußpeise , Dessert デザート
Melanzani Aubergine ナス
Obers, Rahm Sahne , Rahm 生クリーム
Paradeiser Tomaten トマト
Palatschinke (Eier-)Pfannkuchen クレープ
Powidl Pflaumenmus, Zwetschgenmus すもも
Ribisel Johannisbeeren すぐりの実
Rindsbraten Rinderbraten ローストビーフ
Rostbraten Roastbeef , Hochrippe , Schorrippe
Rote Rübe Rote Bete 赤ビーツ
Stelze Eisbein 腿肉
Topfen Quark トップフェン、チーズ
Zibeben Rosinen レーズン
Zwetschke Pflaume, Zwetschge プラム
お隣でも言葉がかなり違うんですね。厨房の中でも秤(はかり)はグラム表示でなくデッカー(Deka)表示。これは1デッカーが10グラムになります。オーストリアレシピにはデッカー表示が多いので気をつけましょう、でも最近はグラム表示が多くなってきました。冷蔵庫もクールシュランク(Kuehlschrank)がオーストリアではアイスカステン(Eiskasten)氷の箱、なるほどね。飲み屋もドイツではKneipe、オーストリアではLokal。それでは皆さんカンパ〜〜イ、zum wohl、イエイエ、オーストリアでProst!(プロ〜〜スト!!)
ハプスブルク家と菓子
ハプスブルク家と菓子
ヨーロッパ文化はメソポタミア文明から始まり、ギリシャ文明、ローマ帝国などを経てハプスブルク家へと続いていく訳ですが菓子や料理の文化も戦争などでその国の文化が吸収されていく中で食べ物文化も勝者に受け継がれていき、少しづつでは有るがその土地の逸品として根付いてきました。
ハプスブルク家の菓子の歴史もスイスの田舎貴族であった時代を経てヨーロッパの頂点の家系を築いていく中で食文化も育んでいったのです。古くはローマ時代のファビウス家がアーモンドの蜂蜜をまぶしたものが、祝い事があるたびに振る舞われたと文献に残っておりこれが現在のアーモンドドラジェとして知られています。マジパンもこの頃に作られたのではないかといわれ、アーモンドの粉に砂糖や蜂蜜を混ぜたものを食されていた様子が、古代ペルシャの壁画に描かれています。このように、当時の菓子は自然の甘味が摂取できるフルーツのほかに、栄養価の高い木の実であるアーモンドやクルミ類を蜂蜜でまぶしたものが菓子として食べられていたようです。現在のウィーン菓子にもイタリア文化の影響を強く受け継いでアーモンドやクルミを使った菓子が数多く残っています。
ハプスブルク家も古くから菓子文化を育んでいったのでしょうが食文化が一番花開いたのは「マリア・テレジア」の時代といっても過言ではありませんが、スペイン・ハプスブルク家も忘れてはならない存在です。スペイン・ハプスブルク家は、コロンブスのアメリカ大陸到達により数多くの食材が輸入され、カカオ・ヴァニラなどが入ってきました。またイスラムの錬金術、蒸留技術がリキュール酒を作り出し菓子作りに活かされて菓子技術が大いに向上したのもスペイン・ハプスブルク家の影響が大きかった理由の一つです。また今まで高価だった砂糖が、1745年にドイツの化学者 アンドレアス・マルクグラーフ(1709-1782) が飼料用ビートから砂糖を分離することに成功してからは、今まで蜂蜜だけが甘味料だったのが安価な砂糖が出回ったために菓子作りは一段と飛躍していきます。
バターは紀元前から知られてはいましたが菓子の材料として大量に使用がされてきたのも「マリア・テレジア」時代のハプスブルク家です。パンにもバター、砂糖が多く使われブリオッシュが作られ、デニッシュペストリーはハプスブルク家が贅沢にバター、砂糖を使った菓子から発展していったものです。では古くからある菓子はどういったものがあるのかというとシュトレン(Stollen)やレープクーヘン(Lebkuchen)が挙げられます。シュトレンは小麦粉100%に対して乾燥物(ナッツやドライフルーツなど)が最低60%含まれ、かつ乳脂肪(バターなど)が30%以上と規定されています。レープクーヘンは蜂蜜がたっぷり入っている生地に、シナモン、クローブ、オールスパイス、コリアンダーなど数種類のスパイスが入っている菓子で、どちらも保存期間が長いのが特徴です。そして当時の各家庭ではこれに似たような菓子を作っていたのではないかと想像されます。昔の生存率を考えると病気にならないためにはどのように健康に注意していかなければならないかを考えていました。糖分は疲れた身体を癒し、スパイスはあの香気、臭気が病気を退散させるのではないかとか、ハーブは体の免疫機能を高めるのではないかということを自然と知っていたのではないでしょうか。そのために食物が獲れなくなる冬にいろいろと工夫し蜂蜜、スパイス、ドライフルーツ、ナッツ類などを加えた菓子が作られていったのではないでしょうか。現在の食料消費時代とは違い、作ったらその日の内に消費しなければならないという事ではなく、長い冬の期間持つように工夫されていったのです。料理では塩漬け、スモーク、天日干しなどがあり、甘味では砂糖漬け(コンフィ・ジャムなど)、種実類(ナッツ類)使用などの方法を見つけていったので
す。またアーモンドから作られるマジパンを使うことによって更に保存に一役買っています。
オーストリアのリンツにも「リンツァートルテ」というアーモンド、シナモン、クローブなど身体にいいものばかり入った菓子が有ります。オーストリア・ハプスブルクがマリア・テレジア時代になると贅を尽くした食材が帝国支配の各地からいろいろと入ってきます。ハプスブルク家の好みとしてアメリカ大陸からの輸入品であるチョコレートが贅沢品として消費されていましたし、「ドボストルテ」や「パラチンケン」、「アップフェル・シュテュルーデル」、「クラップフェン」、「ブフテルン」など等が各地からウィーンへと集まってきてウィーン菓子として定着してきます。こうしてみるとウィーン本来の菓子は何かといわれても困りますがフランスにしてもイタリアにしても栄華を誇った時期に取り入れられ、その国の菓子・料理になっていったものも多く、オーストリアでもハプスブルク帝国として各地から菓子・料理が集結し、洗練されウィーンの菓子・料理になっていきました。
現在ウィーンで売られている代表的な菓子にはサッハートルテ、リンツァートルテ、アップフェル・シュトュルーデル、エストラハージー・トルテ、ドボストルテ、カルディナール・シュニッテ、クーグロフ、シュバルツベルダー・キルシュトルテなどご存知の菓子が今でも綿々として売られ続けています。
例えばフランス菓子とウィーン菓子の違いを述べよといったら、第一には生クリーム類の使用方法が挙げられます。ウィーン菓子が生クリームを全く使わないというのではなく、どちらかというとフランス菓子よりは使用量が少ないように思われますし、ウィーン菓子は小麦粉、ナッツ類の使用が多いためにかなりどっしりした食感と満腹感が有りフランス菓子のような軽くふわっとした食感とはかなりの違いが有ります。フランス菓子で言えば地方菓子にある、ガレット・ド・ロアに見られるようなどっしりとした菓子がウィーンには多いようです。最近では「オバラー」菓子店のようにフランス菓子に近いものも現れてきていますが一般的には前記した菓子がいまだに売られ、消費者も脂肪分の多い菓子が好みのようです。
脂肪分が多いというのは生地にたっぷりとバターを使ったものからケーキの横にたっぷりの生クリームを添えて食べる習慣があります。これは気候風土が影響しており近代化され冬の寒さからしのげるようになった現代では不要でしょうが、暖房器具の少ない厳しい冬の寒さをしのぐ為には多目の脂肪分が欠かせません。調理する脂にもラードが使用されファッシング・クラップフェンもラードで揚げたパン菓子です。最近ではラードからサラダオイルへと替わってきましたがその土地の気候風土、また風習などが混ざり合い食文化を形成しています。
ウィーンの菓子が国民に親しまれてきたもう一つの理由に"ウィーンのカフェ文化"があります。
コーヒーはトルコからももたらされウィーンに根付いていきますがコーヒー一杯で過ごせるカフェハウスがコーヒーに合う菓子を供していきました。今では沢山の種類のウィーン菓子がありますが昔から同じケーキであり、この先も変わらずに同じケーキが創られていくのがウィーン文化の特徴ですが少しづつでは有りますが糖分や脂肪分が減り始めてきた事も確かです。そして食文化で一番の影響を受けているのがキリスト教の行事です。キリスト教の僧侶がワインやパン作りをするのは<パンはキリストの肉であり赤ワインはキリストの血>ということで神の仕事であり、畑作りから研究を重ね、その知識が食文化を担っていきました。文字が読め、幅広い知識をもっている僧侶は庶民が生活していくうえでの先生であり、僧侶が神にお供えするために、キリスト教の行事と食文化は発展していくのです。パンや菓子作りに大きなカマドを持っていたのも食文化を担っていった一端なのです。例えば謝肉祭でのファッシングクラップフェン、復活祭のイースターエッグ、クリスマスのシュトレンなどが宗教と関わりのある菓子でしょうか、ハプスブルク家を影で支えていたのは僧侶たちでした。しかし650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊しましたが菓子文化は今でも我々の胃袋を満たし続けています。
○世紀末ウィーン
○世紀末ウィーン
世紀末と言うと日本人は『この世の終わり』と言うような意味合いに捉える人がいますがヨーロッパ人の考えは全く違います。
10世紀代の世紀が終わりこれから20世紀代の世紀に入りますよ・・・・と言う意味で1900年が最後の19世紀となり20世紀に入ったときはこの世の別れというよりも新しい世紀と考える人も多いそうです。もちろん日本人のように厭世的な考えを持つ人もいます。
つまり節目節目を大事にするようです。そういえば私の友人も50歳のお祝いだといってパーティを開くからと数年前に招待された事もありました、向うでは60歳が還暦ではなく、一つの大きな数字の変わり目が重要なようです。ですから19世紀から20世紀になるのはヨーロッパ人にとっては大きな節目なんでしょうね、決して人類が滅びる終末伝説ではないようです。
バロック文化から18世紀末にはロココ文化がフランスに興り、ドイツ、オーストリアでもビーダーマイヤー時代が現れ、イギリスではウィリアム・モリスによって興ったアーツ・アンド・クラフツ運動、など等19世の終わりごろには更に新しい芸術運動が世界中に興りました。オーストリア・ウィーンといえども数々の芸術家が新しい芸術様式を発表していきました。何処の世界でも長老と言われる古い人間には新しい芸術には反発も多かった事と推測します。フランスの印象派画家たちとアカデミーの反発は有名ですね。19世紀ウィーンの世紀末に広まったユーゲント・シュティールJugendstil運動はご存知の方も多いはず。Jugendstilとは英語でJugendはユースyouth、stilはスタイル styleということで若者スタイルと直訳できます。フランスのアールヌーボー(Art nouveau)も同じ意味です。
この時代に活躍したウィーン芸術家は数多く、画家、詩人、建築家、イラストレーター、作家、ガラス工芸家、作曲家、哲学者が沢山います。
世紀末ウィーンを体験できます。
例えばオットーワーグナーのカールスプラッツ駅(1899年)マジョリカハウス(1898年)ドナウ運河堰監視所(1907年)郵便貯金局(1906年、1912年)が有名です。
アドルフ・ロースのカフェ・ムゼウム(1899年)アメリカン・バー(1907年)ロースハウス Looshaus(1911年)が有名。
ヨーゼフ・ホフマンのプーカースドルフ・サナトリウム、ウィーン分離派の扉飾りの浮き彫り、ベーゼンドルファーのグランドピアノなどが有名。
このように名前だけでも知っている人が多いと思いますが、その他にもグスタフ・クリムト(画家)、アルノルト・シェーンベルク (作曲家)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(哲学者)、ジークムント・フロイト(精神分析学創始者)などが世紀末に活躍した人々です、その他の国でもギュスターヴ・モロー(フランス、象徴主義の画家)、エミール・ガレ&オーギュスト・ドーム(フランス、ガラス工芸家・陶芸)、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(フランス、画家・ポスター作家)、アントニ・ガウディ(スペイン、建築家)アルフォンス・ミュシャ(モラヴィア生まれ、グラフィックデザイナー)、
オーブリー・ビアズリー(イギリス、詩人・作家・画家)フェルナン・クノップフ(ベルギー、画家)エドヴァルド・ムンク(ノルウェー出身、画家)など等、まだまだいますが個人的に好きな人たちです。
もしタイムマシンが有ったら、こんな時代に舞い戻ってしまいたい衝動に駆られるのは私だけでしょうか。ウィーンは古いものをいつまでも保存していますが、新しいものも受け入れる姿勢は崩していません。ユーゲント・シュティールなども当時は最先端の新しい芸術、でもそれも取り入れたウィーン人の懐の大きさに脱帽です。そうそう、マッキントッシュ、ドビュッシー、ホイッスラー、ランボー、マー
ラー、も忘れてはならない人々です(個人的にですけどね)。
○ハプスブルク家最後の皇太子
○ハプスブルク家最後の皇太子
欧州のオーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝の長男で、元欧州議会議員のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg、1912年11月20日 -2011年7月4日)氏が4日、ドイツ南部のペッキングの自宅で死去しました。98歳でした。ハプスブルクという名前はもう無いのかと思いましたが、まだま
だ子孫の方は残っておられます。オットー・フォン・ハプスブルク氏は最後の皇帝カール1世の皇太子(現在は帝政廃止)ということで、ウィーンにおいて盛大な葬儀が執りおこなわれました。
続柄 はカール1世第一皇子 、全名はこれまた長い Franz Josef Otto RobertMaria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix Rene Ludwig GaetanoPius Ignazius von Habsburg-Lothringen と言います。
1912年、カール1世とツィタの長子として誕生しました。本当はフランツ・ヨーゼフ帝の息子のルドルフ皇太子がが継ぐはずだったんですが情死したため、ツィタとの子であるオットー氏が継ぐことになったのです。葬儀は7月16日、ウィーンで営まれ、欧州議会議長の他、スウェーデン国王、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン大公やブルガリアとルーマニアの元国王などの各国君主の他、イギリス、スペイン、ベルギー、バチカンからも国王(女王)や教皇の代理が葬儀に出席したということです。ハプスブルク家の伝統に従い、遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリ
ー北西部のパンノンハルマ(Pannonhalma)のベネディクト会大修道院に安置されました。
最後のハプスブルク皇太子らしく、3500人余りの参列者が ひつぎとともに市内を行進し、オーストリアの市民の間では、帝国時代の栄華を懐かしむ声が出る一方で、今や一民間人になったハプスブルク氏の葬儀に オーストリア政府が支援したことに批判的な声も聞かれたそうです。
当日の葬儀の模様は次のような内容です。
『ハプスブルク皇帝・皇后の伝統ある納骨堂・カプツィーナー教会の門で、黒装束の使者が銀色の杖で3度たたいた。「ここを通らんとする者は誰だ」と、年取った神父が正面玄関ですげなく聞いた。「オーストリアのオットーです。
かつてのオーストリア・ハンガリー帝国皇太子であり、ハンガリー・ボヘミア、ダルマテア、クロアチア、スラヴォニア、ガリツィア、ロドマリア・イリュリアの王、トスカーナおよびクラカオ大公、ロートリゲン、ザルツブルク、シュタイヤー、ケルンテン、クレイン、ブゴビナ公...」と、それからは1000年近くの歴史の内に購入し、勝ちとり、政略結婚で得とくした、星の数ほどの所有地、称号、位が並べられた。
「その者は知らない」と、修道士は答え、再び聞いた。「ここを通らんとする者は誰だ」
「ハプスブルク家のDr.オットーです。国際汎ヨーロッパ連合の議長及び国際名誉会長であり、欧州議会の議員で老議長、数多の大学の名誉博士で、中央ヨーロッパの数々の共同体の名誉市民であるDrオットーです」と、今度はオットーがその長い人生の中で自身で手に入れた政治家としての称号や大学の
栄誉などが伝えられた。これこそ、式典の開催者が門番に伝えていたオットーなのである。
それでも神父は入場を拒否した。哀れな罪人オットーとして入場を祈願して初めて、鉄を打ちつけた納骨堂の扉が振動と共に開かれた。チロルの兵隊たちが、旧帝国の色である黒と黄色に双頭の鷲が入った布に包まれた棺を肩に担いだ。
「オットーよ、安らかに眠れ!」と、最後の敬礼がなされ、最後の太鼓の音が響き、遠くで礼砲が鳴った、そして、色とりどりの波打つ旗を携えた人々が帝国を失った君主に最後の会釈をした。これより、古きオーストリアの皇太子は違う世界へと向かうのだ。そこは、豪華な大霊廟にある、ひしめき合う古い錫
の棺の中で安らかに眠るハプスブルク家皇帝・皇后の祖先たちの死の王国。
オットーの埋葬は午後3時、蝋燭の灯った中で行われた。ウィーンの大司教カーディナル・クリストフ・シェーンボーンが、ミヒャエル・ハイドンのレクイエムの素晴らしいメロディーに合わせ、故人の為に鎮魂のミサを執り行うステファン寺院には香煙が満ち、連祷が絶えなかった。』
≪参照TransVienna≫
http://www.youtube.com/watch?v=EHSpVSsQNAA
http://www.youtube.com/watch?v=zVReppJEc3E
http://www.youtube.com/watch?v=OpwcdNMzfeE