カールス教会 Karlskirche
カールス教会 Karlskirche
第一回目に選んだ理由は、この教会の裏で働いていたので毎日見ていたからです、特に理由はありませんがこの教会の様式がばらばらなのも気にかかった理由です。
設計者はVater und Sohn Fischer von Erlach(フィッシャー・フォン・エルラッハ父子)です。場所はウイーンの1区、地下鉄駅のKarlsplatzカールスプラッツ駅からすぐのところ。このカールスプラッツ駅がオットーワーグナー作の有名な建築物ですがこれは後日述べましょう。カールス教会は、ハプスブルク家のカール6世皇帝が、1714年2月、ウィーンを襲ったペストの流行の早期終息を願って教会建設が決定、1737年に完成しました。
ローマのトラヤヌス帝記念柱を模したという2本の柱、神殿風のポーチとバロック様式のドーム。皇帝から設計を依頼されたフィッシャー・フォン・エルラッハ父子はかなり張り切ったとみえます。柱にはレリーフがびっしりと彫られています。聖人カール・ボロメウスがペストを鎮める物語とか。カールス教会の名前はこの人が由来です。いまカールス教会はフレスコ画の修復で足場が組まれています。いままでは見上げるだけの天井でしたが4ユーロを払ってエレベーターで天井近くまで上りました。さすがに近くで見るフラスコ画は素晴らしかったです。そこからウイーンの街が見渡せるのですが落下防止の網に邪魔されて写真を撮るのは難しいようです。
ウィーンの森
ウィーンの森
ウィーンの町を取り囲むようになだらかな丘陵森林地帯、ヨーロッパ・アルプスの山並みの最東端が、ウィーンの森です。ウィーンの森で思い出すのがヨハン・シュトラウスの「ウィーンの森」の音楽ですね。この音楽を聴きながらホイリゲで一杯。
エッ?ホイリゲって何かって?これは「今年」を意味するドイツ語の「ホイヤー」から転じた言葉で、グリンツィング周辺で今年産の若いフルーティーなワインを飲ませてくれる"居酒屋"です。ウイーンの森の散策は、北部のカーレンベルク地域が観光客にはお勧めです。山頂に立つとドナウ川とウィーンの町並みが一望でき、ウイーンにきた実感が湧きます。
その他のお勧め地区にはクロスターノイブルク。ウィーンの旧市街から北へ13キロ、ウィーンの森、レオポルツベルクの丘のふもとです。グライフェンシュタイン城もウィーンから車で約30分位のところです。ウィーンの森 南部にはバーデンと呼ばれる温泉地区があります。風呂好きの日本人には温泉と聞くと行きたくなる御仁も多いかと思います。但し、水着を着用しての男女一緒の入浴になります。サウナは男女とも裸で入浴になります。(混浴ですが・・・・)
そして、ハプスブルク家のルドルフ皇太子と若き男爵令嬢マリー・ヴェツェラの心中は『うたかたの恋』という映画で有名になったマイヤーリンクもウィーンの森に有ります。マイヤーリンクから北西へ数キロ行くと、オーストリア最古のシトー派修道院ハイリゲンクロイツがあります。この名は、キリスト磔刑に用いられた十字架 (Heiligenkreuz) の聖遺物が保管されているところから、ハイリゲンクロイツと呼ばれるようになったそうです。
どうです、ますますウイーンに行きたくなったのでは?
何度も行っている方は今度はどこの『ホイリゲ』に行こうかと思案中なのでは。
【情報】
新酒が出回る前に半発酵状態のワイン??シュトルムまたはモストというぶどうジュースが売られます。これはワインでもなくジュースでもない飲み物で、これからワインになるという途中の飲み物です。10月の数日間くらいしかお目にかかれません。10月頃旅行を計画されている方にはお勧めです。(発酵状態なので持ち帰りは出来ません、たっぷり飲んでお楽しみください)
トラウベンサフト(ブドウジュース)
↓
モスト(Most)ジュースに近い濁り酒、とっても甘いお酒
いいえ、ジュースそのものです
↓
シュトルム(Sturm)ワインに近い濁り酒甘いジュースだがほぼ、
ワインに近い。シュトルムとは嵐という意味、飲みやすいので、
ついのみ過ぎて頭が嵐のようになるのでこんな名前がついた??
↓
ワイン(Wein)出来たてのワインはホイリゲで飲めます
市立公園(シュタットパーク Stadtpark)
市立公園(シュタットパーク Stadtpark)
初めてウィーンの街を訪れ、ホテルに荷物を置いてオペラ座やケルントナー通り、王宮を見学して、疲れた脚を休ませようとして立ち寄るのが、市立公園(シュタットパーク)ではないでしょうか。この公園は1862年8月21日にウィーン市立第一号の公園としてオープン。(全ての完成は1872年です)設計は当時の宮廷画家であったヨーゼフ・セレニーと造園局長ルドルフ・ジーベックです。市の中心部の公園なので、読書する人、散歩する人など市民の憩いの場として賑わっていて、この公園内には観光客が必ず寄る、有名なヨハン・シュトラウスの記念像やシューベルト、ブルックナー像があります。沢山の木々と草花、小さな池はは人々の安らぎを与えています。
公園と隣接しているクアサロン(Kursalon)は毎日ワルツコンサートが開かれここも観光客で毎日賑わっています。(4月~10月)どの辺りにあるの?とお尋ねになる貴方。ウィーンにお出かけになればすぐにわかりますよ。
すぐにでも知りたい貴方。Webカメラがありますのでご覧下さい。
但し、8時間の時差にご注意。
市立公園ホームページ
ナシュ・マルクト
ウィーンの多彩な市場(ナシュ・マルクト)Naschmarkt
ウィーンの人々の台所といわれているのがここ、ナッシュ・マルクトです。ナッシュマルクトは、ウィーン分離派会館から、オットーワーグナー作のマジョリカハウスまで長く伸びており、魚屋、肉屋はもとより、豆・野菜・ワイン・ハーブ・スパイス・生花・チーズ・フルーツなど多種多様の食品を売っている店が所狭と、並んでいます。
また各国の食材も多く、トルコやスラブ、インドの人も多く、トルコのシシカバブ売りが何軒もあります、勿論日本食の材料もここでそろうので、在墺日本人は重宝しています。日本人の客が多いと見えて、魚屋の前を通ると「タイ・マグロ・エビ」と日本語で声をかけてきます。
ソーセージスタンドでサワークラウトとピクルスをおかずに焼きソーセージをほおばりながら、ウィーンの人たちが何を食べているのか観察でき、食に興味のある方にはお勧めのスポットです。国立オペラ座の前の通りをまっすぐ5分程歩くとすぐに分ります。毎週土曜日は近くで蚤の市もやっています(雨天の場合は中止)。
シェーンブルン宮殿Schloss Schoenbrunn
シェーンブルン宮殿Schloss Schoenbrunn
ハプスブルク家の夏の離宮だったシェーンブルン宮殿は、マティアス皇帝が発見した泉(シェーンブルン・美しい泉)の名に由来します。1569年の皇帝マクシミリアンII世から始まりマリア・テレジア女帝が完成させた宮殿です。皇帝達が住んでいるホーフブルク王宮(Hofburg)に対しこの宮殿は夏の離宮として利用されました。全部で1141室もありその内の40室が一般公開されています。室内はボヘミアングラスのシャンデリア、黄金の装飾など、豪華絢爛で内装はマリア・テレジアの時代にロココ様式に改装されたものです。外観はマリアテレジアカラーといわれる、黄色を基調とした色がなんともいえません。1805年、1809年とナポレオンがこの宮殿を利用しています。ナポレオンカラーとして有名な黄色はこのシェーンブルン宮殿の色からとったのではないかと思うのは私だけでしょうか。
宮殿内には「シシ―」こと、エリーザベト皇后(1837-1898)があの美しさを保つ為に作らせた運道器具が見られます。テーブルセットは独特のセッティングでナイフ・フォークがすべて右側に伏せて並べられています。
1762年に6才のモーツァルトが御前演奏した「鏡の間」、にはモーツァルト自身の描かれた絵画が飾られています。このときモーツァルトが可愛かったマリー・アントワネットに近づき「僕のお嫁さんにしてあげる」といったと言われている。
また、シェーンブルン庭園内にある「ローマの廃墟」は当時の貴族がローマへの憧れをこめて18世紀にわざと古びたてて作らした物です。そしてマリアテレジアの夫、フランツ・シュテファン公の趣味で作ったシェーンブルン動物園は世界最初の動物園として有名ですね。マリアテレジアが子供たちの情操教育のために利用していた様です。この動物園は一時、入園者の減少に伴い、閉園の憂き目に合いましたが、現在は来園者も増え皆様の来園を待っているとの事です。場所はグロリエッテを望んで右側です。是非行ってあげて下さい。そうそう、20世紀初頭に作られた日本庭園もありますのでお見逃しなく。
ウィーンに来たら、ここもやはり見逃せない見学コースですね。
◎宮殿内の見学時間:
夏季4月1日~10月31日8:30~17:00 冬季11月1日~3月31日 8:30~16:30
◎見学コース:
インペリアル・ツアー(22室を見学)
コース:宮殿西側/フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリーザベト皇后の居住空間~宮殿中央/パーティー、セレモニーのためのホール、広間。
グランド・ツアー(40室を見学)
コース:宮殿西側/フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリーザベト皇后の居住空間~宮殿中央/パーティー、セレモニーのためのホール、広間~宮殿東側/マリア・テレジア女帝とフランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン皇帝の謁見の間。
《追記》
シェーンブルン宮殿内にはアパートメントがあり実際に人が住んでいます。月/20万円位の家賃だそうですが、貴方は如何ですか?オーストリア国ウイーン市シェーンブルン宮殿内○○殿。なんていう手紙をもらいたいですね。
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〔1569年の皇帝マクシミリアンの時代、各地の出来事〕
1569/01/14,永禄11/12/27
徳川家康が今川氏真の掛川城を攻撃する。
1569/01/27,永禄12/01/11
上杉謙信が敵に塩を送る。
1569/03/14,永禄12/02/27
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが、二条城の工事現場ではじめて織田信長に謁見する。
1569/08/**,永禄12/07/**
この月、教皇ピウス5世が、コジモ・ディ・メディチにトスカーナ大公の称号を授与する。トスカーナ大公国の成立となる。
1569/09/05,永禄12/07/24
ピーテル・ブリューゲル(Brueghel,Pieter)没。44?歳。フランドルの画家。後期には農民生活に取材した多くの作品を描く。「農民の婚礼」などが有名。(誕生:1525)。
・・・・・こんな時代でした。
フィアカー
フィアカー
ウィーンを訪れてまず目に付くのが、観光客を乗せて走っている観光馬車・フィアカーでしょう。このような観光馬車はウィーンばかりでなくフランスやイタリア、スペインでも見かけますがウィーンのフィアカーは一頭立てでなく、二頭立てで走っているのが特徴です。昔はタクシーとして使われていたのでしょうが、二十世紀になって自動車に追われ、フィアカーの役目は終わってしまったのです。そして第二次大戦後、映画『第三の男』の影響でしょうか、アメリカやイギリスの観光客が増えた事により倉庫に眠っていたフィアカーを引っ張り出して観光馬車として使われ始めたのです。
1848年には680台ものフィアカーがウィーンの街中を走っていたそうです。でも今現在47台しかフィアカーがないそうです。何故増やさないかですって?フィアカー一台作るのに約700~800万円ほどかかるそうです。なるほどリムジン並みの値段ではおいそれと増やすにはいかない訳ですね。
このフィアカーなる名前は17世紀のフランス人ホーリー・フィアカーが発明したので彼の名前からきています。当時のフィアカーはかなり乱暴な運転だったらしく事故も絶えなかったそうですが、今でも街中ではタクシーが当時のフィアカー宜しく、乱暴な運転をしているようです、私もそんな運転手のタクシーに乗った事がありますが、これはごく一部の運転手ですからウィーンにお出での際には安心してご利用下さい。
フィアカーの乗り場は市の中心部、聖ステファン寺院前、王宮前など数ヶ所有ります、一人で乗っても四人で乗っても同じですから安く上げるなら友達同士でどうぞ。
ウインナーカフェーにもフィアカーと呼ばれるコーヒーがあります。薄めのモカにチェリー・ブランデーとミルクを少し加えたものですが寒い冬にはコーヒーにアルコールを入れて体を温めていたのですね。こんなコーヒーが飲めるのもウィーン観光の楽しみの一つですね。
フィアカー (辻馬車) 博物館 Fiakermuseum 17;Veronikagasse12
地下鉄U6:に乗ってJosefstaedter Strasse,で下車、または市電44番で
Hernalser Guertelで下車してください。
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[680台ものフィアカーが走っていた1848年当時]
1848/01/04,弘化4/11/28
首相となる桂太郎誕生。
1848/01/27,弘化4/12/22
海軍元帥になる東郷平八郎が鹿児島に誕生。
1848/06/07,嘉永1/05/07
フランスの印象派画家のゴーギャン(Gauguin,Eugene Henri Paul)がパリ・
ノートルダム・ド・ロレット街に誕生。
1848/12/02,嘉永1/11/07
オーストリア皇帝フェルディナント1世が退位し、フランツ・ヨーゼフ1世が即位する。
・・・・・・こんな時代でした。
聖シュテファン寺院 (St. Stephansdom)
聖シュテファン寺院 (St. Stephansdom)
ウィーンのシンボル、オーストリア最大のゴシック建築の教会。最も古い部分は13世紀のもので、シュテファン広場から入る門。北塔60.6mへはエレベーターで、南塔136.7mは途中まで階段で登れる。
カタコンベ ガイドツアー:
月 - 土 10:00 - 11:30 および 13:30 - 16:30
日・祝 13:30 - 16:30 (30分おき)
エレベーター (鐘, 北塔):
11月-3月: 8:30 - 17:00
4月-10月: 8:30 - 17:30
7月 -8月: 8: 30 - 18:00
南塔 (階段):
毎日 9:00 - 17.30
聖シュテファン寺院の歴史
この大聖堂の建築史は12世紀に始まりましたが、当時の建築は現存しません。リーゼントアーと呼ばれる西側のファサードと「異教の塔」は、1230年?1263年に後期ゴシック様式で建てられました。ハプスブルク家のルドルフ4世(在位1358-1365)はこの教会をゴシック様式に全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分と両側の廊下部分の礎石が据えられました。南塔は高さが136.7メートルあり、1433年に完成。 1469年には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世(在位1439-1493)がローマ法王を説得して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬されています。北塔は68.3メートルの高さで未完成のまま残されていましたが、1579年に代わりのルネッサンス様式の小さなドームが載せられました。18世紀になって大聖堂はバロック様式の祭壇で飾られました。主祭壇の祭壇画には、キリスト教徒の最初の殉教者となった聖ステファヌスの投石による死が描かれています。第二次世界大戦のウィーン攻防戦の最後の数日に、大聖堂は火災で大きな被害を受けましたが、オーストリア国民と政府がこの再建に協力し、1948年に盛大な祝祭をもって大聖堂は復活しました
ベルベデーレ宮殿 Schloss Belvedere
ベルベデーレ宮殿 Schloss Belvedere
ベルベデーレとは、眺めとか展望台という意味で、ここの宮殿、上宮から眺める景色の素晴らしさはショーンブルン宮殿以上ではないでしょうか。リンクの外側、ウィーン南駅の近くにありますこの宮殿はトルコとの戦いで活躍したプリンツ・オイゲン公general Prince Eugene of Savoy (1663-1736)の夏の宮殿として建てられました。設計者はショーンブルン宮殿を建てたフィッシャー・フォン・エァラッハの後を継いだヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(1668-1745)です。1714年にオイゲン公はヒルデブラントに命じたのです。ここの宮殿は上宮と下宮の二つの宮殿からなっており、下宮は1716年、2年後に完成。上宮は1717年に着工、1721~1722年に完成しています。上宮のインテリアは翌年に出来上がりました。1752年にマリア・テレジアはオイゲン公の相続人からこの宮殿を購入しました。
1776年、テレジアの息子ヨーゼフ2世の提案によって「帝国の、そして、王立の画廊」ということでベルベデーレ宮殿の上宮は19世紀、20世紀の芸術家による作品。フランス人の印象主義者、例えば、クロード・モネ, オーギュスト・ルノアール、グスタフクリムトによる傑作, エゴンシーレと オスカーココシュカ、そしてゴッホ、ロダン、ムンク等の作品も収容されています。皆さんのご存知のクリムトの代表作「接吻」もここに納められています。下宮は中世のアート博物館、バロック博物館となっています。
■ ヴァルトミュラー
19世紀前半に中産階級の好んだ生活様式「ビーダーマイアー様式」を代表する画家。「マイバスウィーンの森」で紹介されるシューベルト「菩提樹」の谷で1865年に没している。強い日差しと影の庶民風景画家。
■ クリムト
グスタフ クリムトは100年位前の頃 と言われた頃の生活様式ユーゲントスティルを代表する画家。ヨーロッパにおいて当時流行した日本趣味の影響、ヴァン ゴッホ の影響、金箔を絵画作品の中に使った 独自のスタイルの成功 等で知られる。
■ エゴン シーレ
「永遠の子供」シーレは28歳の短い生涯をクリムトと同年にウィーンで閉じた天才画家。大胆な構図、多彩な色使い、生の悲しみ、 どれをとっても見る人の心を捕らえて離さない。
開館時間:月曜日を除く毎日10時-17時
アクセス:オペラ座正面(横ではなく正面)から路面電車(市電)D 南駅
SuedBahnhof 行きに乗り4つ目 Schloss Bellvedereベルベデーレ宮殿 下車。路面電車の進行方向に50m移動した左が入り口。
美術館入り口は斜面が広がる。
ベートーヴェンハウス
ベートーヴェンハウス
ウィーン観光でベートーヴェンハウスを見たいというと「どこのですか?」と言われるくらいベートーヴェンはウィーンの街を転々としていました。ようは引越し魔だったんでしょうかね。それほど多い彼の家は有名なところでは
★ハイリゲンシュタット遺書の家:ヴェートーヴェンの記念館。
最初の滞在である1802年4月から半年住んだ家は、彼がここで1802年10月6日に遺書を書いたので「遺書の家」と呼ばれる。19区にあります。
住所は 19区Probusgasse 6 Tel. 370 54 08
★エロイカハウス:ヴェートーヴェンが「英雄」を作曲した家。夏になると郊外に住むことを習慣としていた彼は、1803年6月からここに滞在し「英雄」の主要部分を作曲。
開館:金曜15-18および予約 Tel. 5058747 19.区Doblinger Hauptstrase 92
そのほかにも、1817年の夏に住んだ家が聖ヤコブ教会に隣接するホイリゲの2階に滞在したと言われています。その建物の側面に「ヴェートーヴェン音楽散歩の案内板」があるのでわかるでしょう。
ヌスドルフには1817年と1824年に住んでいます。「田園」を完成した家は、また別・・・・・・。と、いうように色々と引っ越してます。また、ウィーンばかりでなく「バーデン」にも住んでいました。
こんなベートーヴェン。生まれはご存知のようにドイツのボンで(1770年12月16日~1827年3月26日)生まれました。お父さんは宮廷に仕えるテノール歌手だったが、アルコール依存症であり、人格的に問題があったとされる。そして彼は、1792年11月10日ウィーンに移り住みました。
学校の音楽室には気難しいベートーヴェンの顔が、私は今でもしっかりと覚えています。
ウィーンにお出かけの際にはどんなベートーヴェンに合えるのでしょうね。
ケルントナー通り (Kärntnerstrasse)
ケルントナー通り (Kärntnerstrasse)
初めてウィーンを訪れ、最初にウィーンを実感する場所がこのケルントナー通りではないでしょうか。オペラ座の裏側にある"ホテルサッハー"からシュテファン寺院まで有名店が並んでいるメインストリートは観光客ばかりでなく、地元ウィーン子も良く出かける場所です。
このケルントナー通りはかなり古く、かのバーベンベルク家のレオポルド五世が整備し発展させたそうで、ケルントナー通りの名が初めて文献の中に出てくるのは1257年頃だそうです。このケルントナー通りの名前の由来はケルンテン州の『ケルンテン (Kaernten)』に由来しています。
この道をまっすぐ行くとケルンテンに行きますよ、という意味で、ヨーロッパの通りの名前のつけ方には結構こういった命名法が多いようです。
ドイツにある、『ロマンチック街道』もこの道をまっすぐ行くと"ローマ"に通じていますよ、という意味です。このケルントナー通りもケルンテン州からさらにヴェネチアまで通じ、ウィーンへの貿易街道として発展し、今に至っています。今度訪れましたら、ケルントナー通りをまっすぐ見据えて"ケルンテン""ヴェネチア"に思いを馳せて下さい。
ロースハウス (Loos-Haus)
ロースハウス (Loos-Haus)
ウィーン建築で忘れてならない人が、アドルフ・ロース(Adolf Loos,)です。世紀末ウィーンで活躍し《装飾と罪悪》という論文を掲げてウィーン建築にセンセーションを巻き起こしました。ウィーンというよりもヨーロッパの建築美とは華美な装飾で飾り立てるものと相場が決まっていたものを、外観を装飾のないシンプルな建物、ロースハウス(Looshaus 1910~12)を作ったため、市民や有識者からものすごい批判を受ける羽目になりました。このロースハウスは王宮の裏手にあるミヒャエル広場(Michaelerplatz 3)に建設されたため、官庁からも王宮や周りの景観にそぐわないとして圧力がかけられました。
アドルフ・ロースは当時のアメリカのシカゴ派といわれるルイス・サリヴァンの影響を強く受け、建物は外観美で決まるものではないということで当時としては余りにも早すぎた考え方だったようです。我々がロースハウスを見ても何の違和感を感じないのも現代建築と何ら変わりはないからなのです。ウィーンにいらした方は必ず目にしていると思いますが、数件隣が「菓子店・デメル」がありますので「嗚呼、あの建物か!」と、ご記憶の方も多いことと存じます。
ウィーンにいらしたら王宮裏手の角の建物、ロースハウスをじっくりとご覧になってから「デメル」でケーキとメランジェコーヒーを召し上がっては如何だろうか。当時は政治問題までなった建物が今ではウィーン子自慢の建物の一つになっている。
フンデルトヴァッサー・ハウス
フンデルトヴァッサー・ハウス
HUNDERTWASSER HAUS
本名 Friedrich Stowasser 改名Hundertwasser
(フリードリヒ・シュトヴァッサー)(フンデルトヴァッサー)
※日本ではフンデルトワッサ-(豊和百水)とも呼ばれる
(frieden=豊かな+reich=平和な+hundert=百+wasser=水)
またまた、日本人と結婚していたオーストリア人です。フンデルトワッサ-という名前は聞いたことがある事と思います。お父さんはアーリア系オーストリア人、お母さんはユダヤ系チェコ人として1928年12月5日にウィーンで生まれ、2000年2月19日、72歳でなくなっています。これは最近ですね、お会いになった方もあるかと思います。
奥様は日本人で1962年池和田侑子さんと結婚、しかし1966年に離婚しました。日本名、豊和百水は奥様が考えたのでしょう、日本で印鑑も作っています。
彼の業績はご存知の方も多いかと思いますが、ウィーン市委託企画のレーヴェン通りとケーゲル通りの市営アパート、シュピットロウ焼却場の修築を務める。各国でも活躍、もちろん日本でも彼の作品を見ることもできる。大阪市環境事業局の舞洲工場はここが日本なの、と思うフンデルトワッサ-の力作が見られます。
彼の作品を見ていると、19世紀末のアート界に一台旋風を巻き起こした★ユーゲントスティールが20世紀のウィーンに再び蘇ったかのような建築美です。
ウィーンという街は昔から芸術家を育て来た風土があります。中でもオーストリアの母でもある、マリアテレジアは芸術を愛し、芸術家を育ててきました。
ウィーンの街は、街そのものが芸術であり歴史なんですね。
★ユーゲントスティールとは
1897年「ウィーン分離派」が結成した。これにより新しい芸術革命が始まった。グスタフ・クリムトやオットー・ヴァーグナーは、現在の芸術よりは、これを超え来るべきモデルネ(=近代)の草分けともなった。
これは各国も同じく新芸術が花開いた。フランスではアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)という、新しい装飾美術が。イギリスではウィリアム・モリスの主導によるアーツ・アンド・クラフツ運動。スペインではガウディの建築がモデルニスモと呼ばれた日本では明治30年代半ばから大正にかけて流行し民藝運動と呼ばれる。
フンデルトヴァッサー・ハウスからほど近い、クンストハウス。別名、フンデルトヴァッサー美術館。 ここには彼の初期の作品が、展示されています。彼の作品はあちこちにあり、是非ご覧下さい。
ウィーンから南西へおよそ200キロ、ベルンバッハにある聖バルバラ教会。 ゴミを焼却し、そのエネルギーを活用する、シュピッテラウ遠隔暖房施設。 ウィーンから130キロ南下したところにあるブルマウ温泉リゾート
追記
フンデルトワッサーハウスが2005年に二十周年を迎えました。ウィーンを訪れた観光客が必ず訪れる名所でもあり住民とのトラブルが絶えないそうです。観光客からすれば、この住宅はウィーンの市営住宅ということもあり是非、中を見学したいと住民につめ寄る観光客が多く困っているようです。住民からすればプライバシーの侵害だし、観光客からすれば建築家ガウデイーの傑作を見たい欲求にかられるのは当然ですね。9月に住民有志による『フンデルトワッサーハウス友の会』が企業の協賛を得て二十周年記念イベントを開き、観光客や地域住民の交流、ドキュメント映像を放映したり、未公開写真を展示したそうです。建物内に観光客が入れるのは珍しく、Tシャツ、絵葉書の販売が盛況だったようです。今度からはフンデルトワッサーハウスが見学可能になれば更なる観光客が押し世せるのではないでしょうか。皆さんもウィーンに出かけたら、是非お見逃しなく。
ドロテウム Dorothuem
ドロテウム Dorothuem
ウィーンのドロテウムというのはご存知だろうか。どのようなものか知らない方にヒント。世界にはサザビーズやクリスティーズがあるといえば、「ああ、オークションハウスですね」と、判っていただけるだろう。
このウィーンのオークションハウスはかなりの歴史があります。以前にもお話したかと思いますがオスマントルコがウィーンを包囲していた時代です。1683年の第二次ウィーン包囲に勝利したハプスブルク家の兵士たちはオスマントルコ軍を蹴散らし、勝利したのもかかわらず戦争に費やした戦費は大きく、経済的に困窮し、人々の暮らしぶりはひどく、高利貸からお金を借りなければ生活できない人たちが増えました。これは貴族はもちろん一般市民までもが困窮し高利貸に頼ざるを得ない有様でした。こうなると借り手と貸し手の立場は「クリスマスキャロルのスクルージー」と同じような悪どい高利貸が横行したのです。
このような市民の窮状を救うため、1707年、ヨーゼフ一世はウィーンのアンナ通りに公営の質屋"Versatz- und Fragamtes zu Wien"を創設し、高利貸の横行を抑制し、それによって得た利益でもって慈善活動に寄与する目的で作られたわけです。始めの頃は高利貸に苦しむ一部の民衆のために始めた事業でしたが、1787年ヨーゼフ二世皇帝により全ての人々に開放されました。なぜ80年後に全ての人々に解放されたのかというエピソードがあります。
1773年の1月にペストが大流行したのはご存知でしょう。ペストに罹った家族は薬を買うために家財道具を手放せばよいのですが、それもない貧しい人たちは衣類等を質入することしか出来ません。しかしペストに罹った患者の衣類等引き取ってもらえず3年間も受付禁止となってしまったのです。こうなると公益質屋(ドロテウム)の立場は強くなり店の従業員は貧民を助けることなどなく、貴族のお宝もここぞとばかりに買い叩く始末、このような市民の不満を聞きつけた皇帝ヨーゼフ二世は真偽を確かめるべく身なりを貧しくし、安そうな山高帽子を質に入れに行ったのです。店の従業員は安物の山高帽なんか質に入れられても困るので、けんもほろろに追い返そうとしたところ、皇帝は名を名乗りこの従業員の悪行を成敗したそうです。どこかで聞いたようですが、そう、まるでテレビの水戸黄門の台詞を思い出すような展開ですね。この出来事の翌年、皇帝は誰でも使える金利の安い質屋として復活しました。しかしうまく出来た話ですが、そんなことはなかったようですね、これは庶民が願望した話なのでしょう。当時はフランス革命前後のことなので皇帝もそんな暇はなかったことと思います。
誰でも使えるようになった公益質屋もアンナ通りからドロテアガッセ(通りの名前)の旧アウグスチノ派修道院へ移転しこの通りの名前から「ドロテウム」と呼ばれるようになりました。
それから114年後の1901年、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世を迎えて新ドロテウムがオープンします。これが今の「ドロテウム」なのです。数あるオークションハウスの中でも庶民に密接していたオークションハウスは「ドロテウム」だけでしょう。今ではオーストリア各地のほかチェコにも支店があり誰でも参加できるオークションハウスです。もっと詳しい情報が知りたい方は「ドロテウム」のHPがあります、ドイツ語、英語、イタリア語だけですがこちらからどうぞ。
ドロテウムホームページ
そうそう、日本にも「ドロテウム」の代理店が東京の四谷にあります。余裕のある方はこちらを尋ねてはいかがでしょうか。
ウィーンのカフェ事情
ウィーンのカフェ事情
ウィーンに行かれた方はご存知ですが、カフェ文化の中心地ウィーンの町にも「スターバックス」があり、オープン当時は話題を呼びました。ウィーン子はそれぞれ好きなコーヒー店を持ち、浮気?はしないことでも知られていますが、米コーヒーチェーン最大手「スターバックス」は無謀?にも2001年、この街に挑戦してきました。
ウィーンには約、2000件とも言われるカフェがあり、新聞や雑誌が常備され、コーヒー1杯で何時間でも過ごせるカフェはウィーン子には無くてはならない存在。「スターバックス」も60店舗を目標にしてきましたがいまだに10店舗しかない所を見ると、ウィーン子は「スターバックス」の紙コップで飲む味気ないコーヒーを受け入れていないようです。と、思ったら今度はインドのコーヒーチェーン「コーヒーデー」が新たな"挑戦者"として昨年末に同市中心部に出店、注目されているようです。こちらは「スターバックス」の紙コップがウィーン子に受け入れられないことを知り、陶器のカップを使うほか、ウィーン独特の「メランジュ」と呼ばれるミルクコーヒーをメニューに加えるなどして、値段もメランジュ1杯が2.6ユーロ(約360円)と地元の他のカフェ並みに抑えているようです。さてさて、今度のコーヒーチェーンはウィーン子に受け入れられるんでしょうか、注目したいところです。
ウィーンの舞踏会 (バル Ball)
ウィーンの舞踏会 (バル Ball)
ウィーンの舞踏会というと、なにやら敷居が高いのではと、お思いの方も多いことかと思いますが、ウィーンではシーズンになると約300という舞踏会が催され、街全体が舞踏会会場といっても過言ではないほどの賑わいがあります。1月から3月にかけてがピークでウィーン人にとっては無くてはならない行事の一つです。
そのなかでも有名なのがハプスブルク皇帝の催したホーフブルク王宮舞踏会や国立オペラ座のオーパンバル舞踏会があります。そんな有名な舞踏会ばかりでなく、各職業によってもそれぞれの舞踏会が催され、食に関わった、料理人たちやお菓子屋さんたちの舞踏会も賑やかに開催されます。なかでも社交界へのデビューを表すデビュタントはオーパンバル(オペラ座舞踏会)の中継が日本でも流されたことがあったのでご存知の方も多いことかと思います。
あなたも一度は社交界デビューをしてみてはいかがでしょうか。但し、参加するにはそれなりの衣装をそろえなくてはなりませんが、会場によって男性はフロッグコートかスモーキング、ディナージャケット等正装が義務付けられています。盛装をするというのは普段の生活と断ち切った空間を楽しむためのものなので是非チャレンジしてみてください。フロッグコートをお持ちで無いあなたにも、ウィーンの街のあちこちに貸衣装屋さんがあり、あなたのお出でを待ってます。もちろん女性のドレスも扱っていますのでご利用ください。
ワインと居酒屋
ワインと居酒屋
ウイーンのワインといえば、先ず頭に浮かぶのが「ホイリゲ」でしょうか。「今年の酒」(新酒)と言う意味の「ホイリゲ」。何もウイーンの森近くの「ホイリゲ」まで出かけなくともウイーン市内には美味しいワインを飲ませる「ワインケラー」は無数にあります。(ちょっと大げさかな)このオーストリアのワインはいつ頃からあるのかというと、かのローマ帝国がオーストリアまで遠征したときにローマ兵が植えたのが始まり。遺跡からは更に古い葡萄木の発見があるようですが、ワイン作りのための植樹はローマ兵によって、もたらされたものでしょう。ヨーロッパアルプスの東端がウイーンの森、ここの南斜面がブドウ栽培に適していてウイーン子の秘蔵の地。そのほかにもドナウ渓谷、シュタヤマルク南部、ブルゲンランドを中心に質のよい白ワインが生産されています。最近では赤ワインが人気で徐々に増えていく傾向にあるようです。
オーストリアの代表的な品種はこちらになります。
白ワイン用品種
グリューナー・ヴェルトリーナ Gruener Veltliner
ヴァイスブルグンダー Weissburgunder
ウェルシュリースリング Welschriesling
フリューローター・ヴェルトリーナ Fruehroter Veltliner
ミューラー・トゥールガウ Mueller-Thurgau
シルヒャー Schilcher
赤ワイン用品種
ブラウアー・ブルグンダー Blauer Burgunder
ブラウアー・ポートギーザー Blauer Portugieser
ブラウフレンキッシュ Blaufraenkisch
このようなブドウ品種から美味しいワインが造られています。
映画「第三の男」のヒロイン、アリダ・バリ
映画「第三の男」のヒロイン、アリダ・バリ
以前紹介した映画「第三の男」のヒロイン、アリダ・バリさんが亡くなられました。4月22日ローマ市内の自宅で死去。84歳。映画の中では素晴らしい演技の女優さんでした。私は最後の中央墓地のエンディングで真っ直ぐ歩いていく姿が忘れられません。グレアムグリーンの原作では墓地で再会した二人はやがて肩を並べて歩き出し、腕を組んだと有ります。どちらにしても私にはアントンカラスのチターの音色を忘れることが出来ません。この映画が嫌いなウィーン人が沢山いると前回も書きましたが、戦争の傷跡深いウィーンの町々が世界中に公開されたことはウィーンの人々にとっては絶えられない屈辱だったんでしょうね。あれから60年近い月日が流れ今では映画「第三の男」の私設博物館があります。
以前お知らせしたものです。
ウィーン情緒豊かな食品市場ナッシュマルクトのほど近くには、この「第三の男」をテーマにした私設博物館がある。
開館されているのは、毎週土曜日の午後。館内には映画ポスター、スチール写真、プログラムに加え、レコードからDVDまで約300点に上る音と映像の記録が、また世界各国から集められた展示品の数々からは、爆撃で破壊された当時のウィーンの日常生活や、映画史を飾る名画の背景などが紹介されている。
Der Dritte Mann Museum
開館毎週土曜14:00~18:00
入館料 6ユーロ(子供16歳未満4ユーロ)
所在地Pressgasse 25, 1040 Wien
Der Dritte Mann Museumホームページ
ウィーン・オペラ座
ウィーン・オペラ座
何度もウィーンを尋ねられた方も、また初めてウィーンを訪れた観光客もウィーンのオペラ座は、一度はオペラ観劇をしてみたいと思うほど有名ですね。世界三大オペラ座の一つで外観も素晴らしいですが一歩中に入ると絢爛豪華な別世界に踏み込んだ錯覚は歴史の重みを感じます。
ウィーンオペラ座の歴史は古く、帝室オペラハウスとして建てられたケルントナートーア劇場が手狭なために新オペラハウスとして1869年5月25日、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」がこけら落しとして上演されて以来、世界に冠たる名オペラハウスとして君臨しています。
紳士淑女が支払う料金から音楽学校の生徒が毎日勉強にこられるような料金まで揃っていますので畏まらず、気軽にオペラ観劇を体験してもらいたいですね。
ウィーンのオペラ座では9月1日から6月30日までのシーズン中に、約50に上るオペラ作品と20のバレエ作品が上演されます、初めてのオペラ座経験をするのならストーリーを知っている有名な作品から入門したら如何でしょうか。オペラ座で上演される一つひとつの作品はきっと貴方を満足させてくれることでしょう。
ウィーンオペラ座は1999年に有限会社(GmbH)になって、最大スポンサーに欧州トヨタの名前があります。指揮者小沢征爾氏が音楽監督を務めているのはご存知の通り、世界三大オペラ座のひとつに日本人が寄与しているのもうれしい限りです。
オペラ座ホームページ
リヒテンシュタイン美術館
リヒテンシュタイン美術館
17世紀の末に建てられたヨーロッパ名門貴族、「リヒテンシュタイン侯爵」のバロック建築の宮殿(夏の宮殿)が2004年の春に「リヒテンシュタイン美術館」として一般公開されました。リヒテンシュタイン侯爵家の美術コレクションは数万点にも及び、そのコレクションの多くが第二次世界大戦のナチスの戦禍からのがれるために、分散し保管され、その後、リヒテンシュタイン家の所有権が認められ、一つひとつスイスとオーストリアに挟まれる自国のリヒテンシュタイン公(侯)国( Furstentum Liechtenstein)に移されました。そしてこの度、この宮殿は美術館として改修され、秀逸の絵画や工芸品を公開しています。
個人の美術館としては世界最大で最高水準の同美術館の目玉はルーベンス・コレクション、ファン・ダイクやルーカス・クラナッハ、といった所でしょうか。美術作品以外にも美術館自体の建物や庭園が素晴らしく、ここで一日ゆっくり過ごすのもいいのではないでしょうか。場所はウィーン9区、リンク通りから市電の「D」に乗って下さい。まずは、リヒテンシュタイン美術館のホームページをご覧になってみてください、その素晴らしさに感激すること請け合いです。
Liechtenstein Museum(Die furstlichen Sammlungen)
開館時間 10:00~17:00
休館日 火曜
所在地 Furstengasse 1, A-1090 Wien
問合せ Tel:+43-1-319-5767-252
Fax:+43-1-319-5767-255
E-mail:info@liechtensteinmuseum.at
Liechtenstein Museumホームページ
シャニガルテンShanigarten
シャニガルテンShanigarten
私がウイーンで初めて勤めたレストランはドナウの近く、4月の寒い時期にも関わらず賄い時にはシェフは必ずガーデンでの食事を誘ってくれた。日本人からすればちょっと寒いが"どうだ!少し寒いが気持ちいいだろう"といって時間たっぷり過ごすのが日課になっていた。休日にまだ寒い4月の市内に出ると少しでも陽が出ていればシャニガルテンと呼ばれるお店の前に植木鉢などで囲ってテーブル・イスが並んでおり、コートを着て外でお茶を飲んでいる客がいる。夏場と違いシャニガルテンは少なく、あっても一部の人ぐらいだが、それにしても太陽を恋しがるウイーン人は多いらしい。
このシャニガルテン、一区の中心地に限っていえば、飲食店は約800店舗、そのうち500店舗位がこのシャニガルテンを出している。夏は観光客も加えてかなりの人がシャニガルテンでお茶を飲んだり食事をしたり、はたまた恋人同士が恋を語ったりとテーブルの上にはいろんな物語が展開しています。あまりにも多いシャニガルテンだが夏場には観光客が加わり更に邪魔になるくらいの混雑を呈する。でも、これもウィーンの風物詩としてなくてはならない光景。シャニガルテンに座ってあなたも人間ウォッチングをしてみませんか。
ウィーンの貸し出し自転車
ウィーンの貸し出し自転車
2002年の春頃からウィーン市内では無料の貸し自転車システムが動き出しました。が、不埒な輩が多くギュルテルの中だけで使用できるはずなのに郊外に乗り捨てられたり、または他国へ転売するものも現れ、すぐに中止になってその年の夏ごろから新システムになって稼動し始め現在に至っている。と言うようなことを聞きました。T-Online社と、Nokia社がスポンサーとなり車体に両社の広告がでかでかと書かれた自転車を公共交通の一助となる役割も期待してウィーン市が設置したそうです。かなりの台数が設置されたようですが先月ウィーンを訪れたときもVISAと書かれたかなりの貸し出し自転車が目に付きました。今では完全無料というシステムから登録制になったようで、ヨーロッパ人なら誰でも知っているMaestroのバンクカードが必要です。初回登録料として2ユーロ、1時間利用は無料、2時間2ユーロ、3時間4ユーロ、以降1時間ごとに4ユーロを追加となり、無くしたら600ユーロの罰金だそうです。でも、日本からの観光客はバンクカードなんか持ってないから無理ですね。
今度ウィーンへ行ったら横目で『貸し出し自転車』をにらんでしまいそう・・。
クリムト作品クリスティーズで競売
クリムト4作品1億9270万ドルクリスティーズで競売
オーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918年)の肖像画「アデーレ・ブロッホ・バウアー II」など計4作品が8日、競売会社クリスティーズで競売にかけられ、合計約1億9270万ドルで落札された。ロイター通信が伝えた。
このうち「アデーレ・ブロッホ・バウアー II」は約8800万ドルで、1枚の絵画としては史上3番目に高い落札額とされる。4作品の合計落札額は事前予想の2倍近くに達した。クリムトの肖像画「アデーレ・ブロッホ・バウアーI」も今年、1億3500万ドルで売却されている。(共同)もうウィーンに行ったら見ることが出来ないんですね、非常に残念です。人類に文化遺産を、私利私欲のために使うなんて・・・・・・何度も愚痴が出てくる筆者でした。
クリムトの肖像画「アデーレ・ブロッホ・バウアーI」も今年、1億3500万ドルで売却されている。(共同)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋
ベートーベン・ハウス その2
ベートーベン・ハウス その2
ベートーベンを知らない人は多分いないかと思いますが、私は小・中学校の音楽室に掲げられていた気難そうな怖いおじさんのイメージがありました。また、耳が聞こえなくなったり幾多の苦難があったりと、何となく可哀想に思えてくる人物ですが、音楽に関しては知る人ぞ知る人物ですね。
生まれはドイツですがウィーン人に言わせると彼はドイツ人でなくウィーン人(オーストリア人ではない)だと言われるくらい永くウィーンに住み、数々の名曲をウィーンで作曲しました。引越し魔であったベートーベンはウィーンに沢山の住居を残しています。そんな彼の住居探しの散歩は、ウィーン好きにはたまりませんね。
彼の本名はルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven(1770年12月16日~1827年3月26日)有名人なので今更ですが、釈迦に説法させていただきます。1770年12月16日、神聖ローマ帝国のボン(現在のドイツ)で長男として生を受ける。洗礼を受けたのが12月17日。
父=ヨハン、母=マリア、弟=ニコラウス、弟=カスパール
弟ニコラウスは薬剤師でリンツに住んでおり、いろいろと兄のルートヴィッヒと関わりが深かった。(ウィーンとリンツでは隣町でもあり当然か)祖父が歌手だったこともあり、音楽環境には恵まれていたようです。父親は酒飲みのグータラで10代の頃よりルートヴィヒが家計を支えていたという、よくありがちな話があります。
1787年、16歳のベートーヴェンは初めてウィーンでモーツァルトに出会い、弟子になるが母の死により音楽の勉強がままにならず。22歳のときハイドンに師事。その後、数々の名曲を世に出す。その大半はウィーンにて作曲されたことは、ご存知の方も多いはず。その作曲した家が、引越し魔であったがため、ウィーン各地に点在している。でもウィーンはご存知のように東京の一つの区位の広さなのでがんばって回ってほしいですね。その中でも32歳のときに書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」の家などが観光名所になっています。
パスクヴァラティハウス
1804年から1815年にかけて何回かに分けてこの家に住みました。記念館として一般に公開。1区にあります 1., Molker Bastei 8 U2, Tram D, 1, 2: Schottentor Tel. 535 89 05
ハイリゲンシュタットの遺書の家
1802年、ここでハイリゲンシュタットの遺書を書く。
19区 19., Probusgasse 6 Tram 37: Geweygasse Bus 38A: Armbrustergasse Tel. 370 54 08
エロイカハウス
1803年から翌年にかけて「エロイカ」が書かれた。
19区 19., Doblinger Hauptstrase 92 Tram 37: Pokornygasse Tel. 369 14 24
国会議事堂(Parlament)
国会議事堂(Parlament)
ギリシャ神殿のような国会議事堂(osterreichisches Parlament) は、ウィーンのリンク通りに面していて、市庁舎(Rathaus)と自然史博物館の間にすぐ見つけることができます。この国会議事堂は、デンマーク人建築家、テオフィル・フォン・ハンセン氏の手によって1874年から約9年間かけて建てられました。彼が建築を学んだのがアテネだそうで、それでこんな建築になったのかどうかは分かりませんが古代ギリシャの神殿が模範とされていることは威厳・重厚感がありますね。
入口には、大理石でできた古代ギリシャ・ローマの歴史家たちの像が置かれ、左側にはギリシャのヘロドトスやポリビオス、トゥキゥディデス、クセノフォンの像、右側にはローマの著述家サルスティウス、カエサル、タキトゥス、そしてリヴィウスの像があります。さらに60体の古典古代の有名人物の彫像が、バルコニーにも置かれています。
この国会議事堂は第二次世界大戦中に激しい損傷を受け、建物の約半分が失われ、戦後すぐに再建が始まり、1956年にはほぼ元通りになりました。国会議事堂では、内部の見学ツアーも行われていますので一度は見学してみたいですね(国会開会中の期間と週末は除く)
ウィーン中央墓地/Zentralfriedhof
ウィーン中央墓地/Zentralfriedhof(ツェントラル・フリードホフ)
11, Simmeringer Hauptstrasse 234, Tel. 760 41
音楽に興味のある方なら是非一度は訪れてみたいスポットです。ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シュトラウスなど有名な音楽家達のお墓があります。但し、見学には3・4・9・10月は 7:00~18:00。5月~8月は 7:00~19:00。11月~2月は 8:00~17:00までに見学をして下さい。
その時間が過ぎるとあたりは真っ暗(でもないが)になります。
中央墓地への交通手段
地下鉄U3号線の終点スィマリンク (Simmering) 駅で、路面電車71番に乗り換え、中央墓地(Zentralfriedhof) 第2門(Zweite Tor) で下車します。中央墓地が見えてきたら第1門 (Erste Tor)ですから次の駅です、乗り過ごしても歩いて来られますから心配なく。
楽聖達が眠っているのは中央墓地の区画「32A」、第2門から正面奥に見える、丸いドーム型の屋根の教会に向かう並木道を200m行った左に楽聖達のお墓があります。 徒歩5分位です。見つからなければ通り過ぎてます戻りましょう。
また若い方はご存じない方もいらっしゃるでしょうが1950年アカデミ-賞に輝いた名画「第三の男」の名場面はここウイ-ン中央墓地の中で撮影されました、原作の最後のシーンはハリーの恋人アンナと主人公の小説家マーチンスがここの中央墓地を一緒に並んで歩いていくのですが、映画では何も言わずに別れていくシーンが忘れられません。私はここの近くに住んでいましたので休みの度に子供を連れての散歩道でした。
スペイン乗馬学校
スペイン乗馬学校
スペイン乗馬学校(Spanische Hofreitschule)
ウィーンにはスペイン式の乗馬学校があります。もちろんスペイン・ハプスブルクと無縁ではありません。馬術学校は世界中に沢山ありますが、ウィーンにあるスペイン式乗馬学校は1572年のルネサンス時代に古典馬術学校として創設され、馬術学校としては世界一の施設ではないでしょうか。これを設計したのはは、カールス教会やシュヴァルツェンベルク宮殿、オーストリア国立図書館などを手がけたバロックの巨匠ヨーゼフ=エマヌエル・フィッシャー・フォン・エルラッハです。ウィーンを訪れたら一度は覗いてみたい場所ですね。まずはホームページを覗いて思いをはせて見ませんか?
Spanische Hofreitschuleホームページ
人気スポットなので出来れば予約されるのが望ましいでしょう、所要時間はおよそ1~2時間位です。
所在地 MICHAELER PLATZ 1, A-1010
TEL:(1)533903113 FAX:(1)533903140
Postsparkasse (郵便貯金局)
Postsparkasse (郵便貯金局)
郵便局による貯蓄制度がオーストリアで始まったのは1883年のことですが、この制度は人気を集め、昔の建物を使っていたのでは業務に支障を来すようになったため、新庁舎のコンペが1903年に実施されました。そのコンペに優勝したのがオットー・ワーグナーです。
1903年設計。1904~06年第一期工事、1910~12年第二期工事をし、完成。外部は当時としては新しいアルミニュームを使った鋲が打たれ、近くによって露出している鋲を触ってみると何故アルミニュームを使ったのかとふしぎな感じがします。内部は一変して天井が総ガラス張りといわれるほど敷きつめられ
柔らかい外光を取り入れる設計になっています。当時としては斬新なデザインでしたが今でもこれほどのデザインはないでしょう。
1883年に始まった郵便貯金局も2000年8月にオーストリア郵便貯金株式会社として完全民営化されました。中央正面壁左側奥には、郵便貯金局ミュージアム『MUSEUM POSTSPARKASSE』が設けられていますので是非見学をされては如何でしょうか。出納ホールの見学と撮影は可能ですが仕事中なので静かに見学をして下さい。
40年前の記憶なので定かでは有りませんが、ここのエレベーターは昔、箱がつながったような状態で常に回り続けていたと記憶しています。このエレベーターに乗るには飛び乗って乗るしかないのです、もちろんゆっくり動いていますので余裕で乗り降りできるのですが年寄りには難しかったのではないだろう
か。もちろん今ではこんなエレベーターはウィーンの何処にもありませんが。
郵便貯金局ミュージアム『MUSEUM POSTSPARKASSE』
Postsparkasse (郵便貯金局)