私のウィーンの思い出滞在記
私のウィーンの思い出滞在記
もう40年近く前になるのですね。
当時大阪万国博のイタリア館で働いていた時に、私がこの世界に入るきっかけとなった料理界での紹介者でもある調理師学校(私は調理師学校には行ってません)の先生から「飯田君、私の友人の弟子がスイスから帰ってくるから替わりに行かないか」とのお誘いの電話があり、万博会場に来てまだ1ヶ月しか経っていなかったが、一も二も無く「行きます」と返事をして東京へ舞い戻って来て、いろいろと話を聞くと「スイスへのビザが中々下りない、そこでもしヨーロッパに行きたいのならとりあえずどこかの国で働いてチャンスを見つけるのが早い」と言われ、私は何処でもいいと思い、話を進めてもらった。その人はチューリッヒのホテルで働いていたのだが国際電話で段取りを取ってくれ、ウィーンで日本人が働ける店があるとの情報が直ぐに入った。
スイス、オーストリアは小学校時代行ってみたい国のベストワンであったから「是非お願いします」と返事をし、早速手続きに入った。当時は1ドル360円の時代で持っていけるお金も少なく不安だったろうと聞かれることもあるが、私には行ける事の嬉しさでどうでもいい事だった。何で1ドル360円なのかと言えば「丸い円」は360度なので「日本円」は360円に決まったと聞きましたが、今聞くとふざけた答えなのか親父ギャグなのか笑ってしまいますが、とにかく手続き全て終えて羽田空港から今は無きイギリスのBOAC機に乗りロンドン経由でチューリッヒに向かった次第です。ロンドンで乗り換えがあったのですが外国の地に着いた初めての土地だった事もあり、乗り換えとはいえ廻りは全て外国人。当たり前と言えば当たり前で外国人はこの私なんですね。そのとき誰かから話し掛けられても英語がよくわからず、今思えば無鉄砲な外国行でした。
無事乗り換えも済み、チューリッヒでウィーンの仕事先の紹介者に会い、そしてウィーンへと向かうわけですが、次号より私のウィーンでの昔話を思い出しながら一頁ずつ書き加えていきたいと思います。
ドナウ川沿いのレストラン
ドナウ川沿いのレストラン
はじめてウィーンの地に着いたのが1970年の春でした。ドナウ川の傍にある魚料理のレストランといわれ、まず想像したのがヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」の名曲が頭に鳴り響き、どんなに素晴らしい街なのかを想像して飛行機に乗り込みウィーン上空では家屋や走る車と共に見えた川がドナウ川なのかと思い、空港から一路タクシーで向かった。レストランの片側に流れているどす黒い川がドナウ川と聞き、ショックを受けた覚えがよみがえる。聞くところによると空が快晴であればその空が反射して青くなり、曇り空だと今日のような色合いになるんだと聞いたときは納得。ヨハンシュトラウスは快晴の日にドナウ川周辺を散歩しながらこの曲を書いたのかな、と思ったらヨハンシュトラウスはドナウ川など見ずにこの曲を作曲したそうですがウィーンにいたシュトラウスが見たことが無いというのは嘘でしょうが、いつものドナウの光景を思い出しながら作曲したのでしょうね。
ウィーン1区のドナウ運河沿いに遊覧船乗り場があります。初めてドナウ遊覧船に乗って、ドナウ運河からドナウ川に出たところでこの曲が流れてきたときは感激でしたね、このドナウ川、昔は曲がりくねっており現在の真っ直ぐなドナウ川となったのには土木工事の皇帝として知られるフランツ・ヨーゼフのド
ナウ川護岸工事(1870〜75年)によるもので、春先の雪解けシーズンの洪水解消が目的の大工事だったようです。私のいたドナウレストランも春先になるとレストラン一体が水浸しになりその日は営業中止となっていましたね。今ではそんなこともなくなったと思いますが今はどうなっているんでしょうね。一昨年、当時のシェフであった「ルディー」から私も辞めてから何十年も行っていないので一緒に行こうと言われレストランを尋ねたら、ご主人は亡くなられおり奥さんが頑張っていた。これからの話は追々話していきたいと思います。
初めての職場
初めての職場
前回書いたように4月にはもうウィーンの地を踏んでいました。この話があってまだ一月も経ってなく、お店のオーナーも、もう来たのかとびっくりしてましたが、聞くところによると私の前にも日本人がここで働いており彼の働きが良かった為か次の料理人も日本人の採用に積極的だったようです。
ここのお店はレストランリンドマイヤーといってドナウ川で獲れる川魚を中心に営業をしているレストランです。今のオーナーが三代目で百数十年の歴史があるレストランです。オーナー夫婦とも英語は話せないことは無いようだが少し苦手なようで、娘の方は若者らしくかなり流暢に話ができる。私も学校英語を駆使して意思疎通を図るのだが彼女は隣のレストランの息子と結婚して小さな息子が一人いる。その隣のレストランだが同じドナウの川魚を売るレストランとして商売敵の店でもあった。まさか両方の親の娘と息子が結婚するとは思っても見なかったかもしれませんがこの話を聞いて思い出したのが「ロミオとジュリエット」の話だった。が無事結婚している所を見ると許しを得たのだろう。後でわかったのだがオーナーは当時の頃を思い出すとシャクなのか隣の店の話をするのを嫌っていた様子だった。それはそうだろうね。
兎にも角にもここで働く事になったのですが、住居の件は非常に助かりました。住まいはここの二階が従業員の住居になっており住み込みという形で働く事が出来た事は言葉もしゃべれない私にとっては願っても無い事だった。ここに住んでいる者はユーゴスラビア人、トルコ人の出稼ぎ労働者であった。彼らはチゴイナ(Zigeuner)と言って住居を持たないジプシーたちで、このレストランの下働きをする者達で、長い人で30年以上もここで働いている。つまり働きやすい職場と言う事か、私にはラッキーな職場である事は確かだった。ここの住居はまだ建てて間もないのか、とてもきれいで白木の木で作った山小屋風の住まいも気に入った。彼らの話す言葉は全く理解できず、私も言葉がわからないので意思疎通には暫く時間がかかるのを覚悟で仕事が終わったらドイツ語の辞書片手に少しづつ勉強していかなくてはと思いながら一日目の夜は更けていく。
何かこんな書き出しだと自分の日記を思い出しながら書いているようでこそばゆいんで、話が前後するかもしれませんが当時の出来事、思い出を綴っていきたいと思いますのでよろしく願います。
ドナウの魚料理
ドナウの魚料理(suesswasserfische)
私のいたレストランで扱っていた魚は一番が鯉(Karpfen)でしたね。
鯉料理はウィーンが名物ではなくチェコやハンガリーなどの諸国でも大いに食べられており、サルツブルグ、チェコなどではクリスマスに食べる風習もあるようです。やはり海から遠いせいか川魚の消費が多いようです、もちろん今では流通経路も整備され、どんな海魚でも入ってきますが長年食卓に並んだ川魚には愛着もあるのか多くのレストランで扱っている。その代表が鯉である。そのほかにもForellen(フォレーレン)と呼ばれる鱒、Regenbogenforelle(レーゲンボーゲンフォレーレン) は虹鱒、Schill(シル)、Hecht(ヘクト)、Zander(ツァンダー)と日本では聞いたことも無いような名前のカワカマス、カワスズキ類なのですが日本のカマス、スズキとは少し違うようです。
Zander(ツァンダー)は南ロシアの川やドナウ川の流域に限られているのでオーストリアらしい魚でしょう。でも少し高い、この中ではやっぱり鯉がポピュラーな魚ですね。
山にハイキングで行けば鱒、虹鱒が食べられますがシュタヤマルク州で、食べた鱒は非常に美味しかった覚えがあり、そこのシェフに聞いた最高の調理法は何かと尋ねたら、「それは塩焼きだ」との答えでした。世界中どこでも新鮮な魚は塩が一番なようですね。
食べ方は日本と同じ、ムニエルにしたり、フライや蒸し調理といった所。ソースがハーブ入りバターやアンチョビバター、ニンニクソースなど添えて出されたりもします。
私が一番食べたくなかったのは魚のグーラッシュ(パプリカシチュー)でした。お店によっては美味しいのですが日本人から見ると魚の扱いがぞんざいで煮込みにすると魚臭くなり閉口したことがあり、それ以来苦手なメニューになりました。
肉料理中心と思われる欧米人ですが意外と魚料理を食べています。キリスト教では金曜日は肉断ちの日、金曜の夜が忙しい思い出がありました。
デカ
デカ(秤の単位・deka)
初日にあった思い出のびっくり体験が秤のメモリ単位が違うという事、計ろうとして目盛りを見たら思っている単位とどうも違う、でも同じというふしぎな雰囲気だった。
これにはシェフから言われた○○を××デッカーグラム計ってくれといわれたときだ。言われた数字の単位で計ったらどうも少ない、これは直ぐに教えてもらって分かったことだが10デッカーグラム(dg)といわれたら、100gの事だった。お店のレシピは全てが「dg」デッカーグラム「dkg」デッカーキログラ
ム表示であった。なるほどオーストリアでは10分の一表示なんだと思ったらそうでもなく、街にでたらグラム表示とデッカー表示と色々あったがやっぱりデッカー表示が多かったように思う。今はもうグラム表示になっているのだろうか?
そのとき思ったのが「デカメロン」という物語が日本では副題で「十日物語」といっていたのを思い出し納得した次第だった。
ふと昔の事を思い出して調べてみたらこの「デカ」という言葉はもう使われていないようだ。1795年に「メートル法」で定められた単位でミリ、センチ、メートル、キロは今でも使われているがセンチとメートルの間にこの「デカ」という単位があったようである。
これはギリシャ語からきていて、フランス語のdecaになったようです。今では単位が小さいので使われていないようです。それがどういうわけだか当時のウィーンにだけ(?)使われていたのには疑問が残るのですがどなたかご存知の方はいらっしゃるでしょうか。
○アラブの王様
○アラブの王様
私が勤めていたここ、レストランリンドマイヤーは魚料理店としてはウィーンでも有名な店で有名人がかなり訪れる。「IIDA今日は映画俳優の何とかが来た」とか「F1レーサーの○○が来た」と言われても私にはどこの誰かは全く知らないので、あーそうなのかと生返事しか出来ないが、当時チップとして
100ドルもらったのが印象として残っている、360円の時代だから結構なお小遣いだ。
しかしアラブの王様が食事に来た時にはさすがにすごいなと思った。
もちろん貸切で側近の多さもさることながら連れている女性の美しいのには目を見張った。
少しウィーン郊外という事もあり、周りにはここのレストラン以外目立つ建物も少ない事から警備がしやすいので来たのかもしれないが、それにしても日本でよく耳にする金持ちのレストランの使い方をまじまじと見た一日だった。
アラブの王様が何を食べたのかはどうも思い出せないが、シェフが全て作っていたので多分覚えていないのだろう。側近達にはいつも通りの魚料理を出したのかもしれないが遠い昔の思い出を今から思い出すのは歳のせいかな?・・・
一昨年ウィーンに行ったときシェフのルディーと共に尋ねてみた。車で行ったが当時はあまり交通量の少なかった道路も今ではかなりの交通量でレストランに着くとそこの通りは"リンドマイヤー通り"と言う標識がありレストランもリニューアルされ昔の面影は無くなっていた。まだ昼前の準備中であったが奥様
が出迎えてくれた。とうに主人のリンドマイヤー氏は亡くなっており、奥さん一人でがんばっているようだ。昔、2000人も入ったシャニガルテンの面影は無く20卓程度のテーブルが並ぶ位だ。
リンドマイヤー氏は昔から、タイ国に興味があり、休暇は必ず2ヶ月ほどタイ国に行っており仏教徒に帰依した。自分の土地の大半を使い仏舎利塔を建てた為かその敷地面積が小さくなり奥様一人の仕事量軽減のためかレストランが小さくなっていた。
娘は嫁いで行った為、奥さんが亡くなったら百数十年続いたこのレストランはどうなってしまうんだろう。どこの国にも後継者問題は深刻なようだ。
○ドナウのシャニガルテン
○ドナウのシャニガルテン
オーストリア人に限らず欧米人は外で食事や喫茶を楽しむ人が多い。
オーストリアではレストランやカフェで建物の外にテーブル、イスを並べて飲食を供する場所をシャニガルテン(Schanigarten)と呼んでいる。私のいたレストランも、もちろんシャニガルテンがあり、直ぐ目の前がドナウ川とあって、川面に吹く風が夏の日差しに涼しさを呼び、レストラン内の客席よりも多く設
えてあった。私がいた時に集客数の最高記録をつくり、約2000人以上の人がドナウ沿いのシャニガルテンで食事をしていった。さすがにこの日ばかりは息つく暇も無く仕事をあおられた記憶がある。
シャニガルテンに溢れた人はドナウ川沿いに自分達が持ってきたパラソルやシーツを利用して昼下がりの昼寝を楽しんでいる人も多い。土曜日、日曜日になると朝早くから釣り道具を抱えレストラン前のドナウ川で釣果を楽しんでいる人も多い。もちろんこの人たちも常連客が多く、昼時になるとシャニガルテン
に座って優雅に食事を楽しんでまた釣りに勤しむ人も何人かはいる。私は土日の忙しい時は、厨房の奥から様子を眺めながら仕事をするのだが、さすがに平日はゆっくりと外を見る時間ができる。シャニガルテンでゆっくりする客を見ていてエコノミックアニマルと呼ばれていた当時の日本人の余裕すらないサラリーマン達を思い出す。本当に当時の日本人は働き蜂であった。その点、欧米人の時間の使い方は勉強すべきだろう。
シェフのルディーも外で食べる食事が好きで賄い時間になると私を誘ってドナウ沿いのテーブルで食事をする。私もその時がドイツ語の勉強時間でシェフのルディーから色々と教わった。ルディーは若いときから船のコックをしており日本以外の外国航路で働いていた事もあり英語は流暢に話す。
私も最初の会話は拙い英語で質問していたが少しづつドイツ語が分かってきたら英語をなるべく喋らないように言われ、そのうち解らないことをドイツ語で聞けるようになってきたら楽しくなってきた。シャニガルテンでの休憩時間は1時間位しかないが、日本人と違い忙しい食べ方はしない。日本で働いていた時は時間との勝負であったから5分10分で食事を済ませ仕事に入る事が多かった。食事の仕方には余りにも早い食べ方に注意をされた事もあったが身に付いてしまった習慣は今でも直せないでいる。
このシャニガルテン、ルディーは寒い冬でも陽がでていれば「IIDA、外で食べよう」と誘ってくれるのはいいがコート着てまでも外で食事をする気持ちも今では判らない事は無い。あの清清しい中で食べる食事はやった事の無いものには分からない経験だ。皆さんも一度は外で、ピクニックで経験した事はあるで
しょう、それを毎日とは言わないが出きるだけ外で食事をしてみたら如何だろう、でも日本では、特に大都市では難しいでしょうね。
○ヌーディストクラブへようこそ
○Herzlich Willkommen! FKK ヌーディストクラブへようこそ
こんなタイトルでは興味本位に捉えかねませんね。リンドマイヤーレストランで働いていた時によく耳にしたのが"FKK"と言う言葉。初めは良く分からなかったがシェフが英語で「ヌーディストクラブだよ、ここのドナウの近くにある」と聞いたときには二十代の男としてはドキドキした覚えがありますが、奥
さんから「そんな所へは行ってはいけませんよ」と言われたがどこにそんな所があるのか分からず、とにかく"FKK"と言う言葉だけは今でも覚えている。
ヨーロッパ人と言うよりも白人は遠い昔から太陽に恵まれず、そのために肌が白くなったと言われており、太陽が出ていれば冬でも肌をさらし出す事に躊躇しない。その点私達、黄色人種は適度な太陽を浴びてこのような肌になったのでしょうね。
オーストリアの"FKK"は、各地にある。ウィーンを初め各州にある。昔の日本のテレビ、なるほどザ・ワールドで裸でスキーをしている人たちが映っており、山小屋にFKKの文字が大きく書かれていたため私は直ぐに解りましたが何も寒い冬まで裸にならなくてもいいものをと感じていましたがね。
ウィーンにはDonauinselが有名で、リンドマイヤーの目の前ですがもちろん肉眼では見えません。Jorgerstrase17番地にあるプールもFKKメンバーの場所になっている。
温泉地でもかなり多くのヌーディスト達が多く、ヨーロッパの温泉は基本的に男女混浴で必ず水着を着用しなくてはならないとあります。日本の温泉と違いかなり温めの温泉が多く直ぐ出てしまうと寒く感じるので長く浸かっていなくてはならないところが多い。
家族連れが多く、恋人同士のカップルも良く見かける。しかしローマ式風呂は別で、素っ裸で入らなくてはないがこれは日本と同じだが男女混浴なのにはちょっと恥ずかしかった。でも向うの人は若いカップルでも平気で入浴している。
ヨーロッパは探すとこのような温泉は沢山あり、日本だけが温泉治療のメッカではないようだ。
○金のネックレス
○金のネックレス(Eine Goldhalskette)
ウィーンで働いてはじめて貰った給料で買ったのが金のネックレス。
といってもこれには十二星座のペンダントがついているもので当時一緒に働いていた従業員から聞いた話では、お守りとして自分の星座のネックレスをしているのだと聞いていたので買いに行った次第です。(ミーハーですね)
今でも覚えていますが店から一番近い駅は「北駅」なのでその近くにあった宝石店に行き購入。これは40年経った今でも首から吊るしており、レントゲン検査のとき以外ははずした事がありません。
当時のオーストリアの金相場は他国より有利だったようです。結婚したときも指輪は金でしたが20年位前に指から外れなくなり切断してしまい、そのままになってしまった。
ネックレスといえばウィーンの「カイザー・フランツ・ヨーゼフ病院」で生まれたわが息子に親友のアンディーからお祝いにともらったのが、星のついている金のネックレスでこれを子供の首にかけておくと幸せになるといわれ、感謝して子供の首にかけてあげた。
この星のネックレスはキリスト教の「ベツレヘムの星」を表しておりキリスト教徒にとっては大事なマークではあるが、キリスト教徒でもない私たちは宗教よりも幸せを願ってくれた親友に感謝。
○結婚式と結婚指輪
○結婚式と結婚指輪(Hochzeitsring)
結婚するときに結婚指輪を注文するのは今やあたり前ですが、この指輪を左の指にするのか右の指にするのかは国によってバラバラなようです。
私も一年で帰るはずがもう一年、もう一年と延ばしてしまい彼女を呼んでこちらで生活する事になり、結婚式をこちらで挙げることとなったのです。
10区に住んでいたので10区の区役所で結婚手続き、式も日取りを決めて行うのですが日本と違って大安吉日を選ぶのではなく自分や招待する人たちの都合を考えて休みの日に決めたのですが、今日決めて明日というわけにはいかず、まず結婚式を挙げる旨を区役所に届けたら1週間だったか2週間だったか忘れまし
たが二人の写真を掲示板に張ります。これはこの者たちが結婚するのに異議があるものはいないかどうかを尋ねる掲示板なんだそうです。国が変わればやり方も変わるんですから面白い経験をさせて頂きました。
はれて異議が無ければ結婚式ということなんですがドイツ語が100%完全というわけでもないので友人に通訳を頼んでの挙式でした。内容は日本と同じようなものでなんとなく理解できたのですが指輪交換のときにおきたのが前記の指輪を右にはめてくださいといった事です。
初めてオーストリアでは右にすると聞いて戸惑いましたが、「日本では左なので左でもいいか」と尋ねた所、あっさりとOKされました。
実はこの右や左の指輪の件、これを書くにあたって調べてみたら、アメリカ、イギリス、などは日本と同じように左手なんですがオーストリア、ドイツ、フランス、イタリア、ギリシャ、スペイン、ロシア、インドネシアなどは右手にするようです。もちろん全ての国民ではないでしょうが宗教に関係しているんでしょうかね、例えばプロテスタントとかカトリックとか?私にはわかりませんけどね、でもたくさんの国が右手にしているのにはびっくりです。
友人のオーストリア人に聞いたら婚約したら左手にリングをして結婚したらそのリングを右手にはめるそうなんです。「オーストリア人はケチだからダイヤモンドを買わないで金の指輪で済ませている」なんて言っていましたが所変わればルールも変わるって事ですね。
○バケーション
○バケーション(休暇・Urlaub)
基本的にオーストリア(他国も)では、夏の1ヶ月間は休むようにと国のお達しがあるようで、国民の大半は夏になったらどこかへ行ってしまいます。どうもゲルマン民族は旅行好きのようで私には何処の国に行ったとかどうとか話していましたが、一般的には暖かい(夏なのに??)南のイタリア、ギリシャ方面に旅行する人が多いようです。私の働いていたレストランは夏が稼ぎどきなので夏休暇はありませんでしたが、その代わり冬休暇が有りました。給料は基本的に年13ヶ月払いで日本のボーナスにあたるのがこのプラス1ヶ月の給料でした。
私はオーナーの勧めでシュタヤマルク州のスキー場で1ヶ月過ごす事になったのですがここのホテル代全てがオーナーの支払いとプラス1か月分の給料がもらえて20代の私には素晴らしいボーナスでした。
スキー場といわれてもスキーをしてばかりいても初めは楽しいのですがそのうち飽きてくる。ホテルのオーナーも毎年泊まりに来る常連客ですから、時々あちこちへと車で遊びに連れて行ってくれ、ある日、今日はグラーツにオペラ観劇に行こうといわれ、そこの従業員と一緒に車に乗ってオペラハウスに向かっ
た。何でオペラかと思ったら、今日の出し物が「セビリアの理髪師」で日本人が出ているから是非見てもらおうと、気を使っていただいた。
その時の日本人歌手の名前を忘れてしまい後日、日本でオペラ歌手の方と知り合いその話をしたらその時代グラーツにも居たからたぶん私ではないだろうかと言われこんな出会いもあるんだな~、と思った次第です。
○バケーション(2)
○バケーション(休暇・Urlaub)(2)
先に話したシュタヤマルク州での休暇中、クリスマスをここで迎えました。スキー場ですから寒いの何の、クリスマスイヴの晩にホテルの外に掲げられている寒暖計はマイナス32℃「冷凍庫だ」と思わず叫んでしまいましたがとにかく寒い。そこでここの慣例(??)に従い、早速ガストハウスのカウンター
でシュナップスを一杯、そしてもう一杯飲み、そして次の酒場でもう一杯、そして次の・・・・・そうなんです、ここのホテルのオーナー(まだ若く30歳代)の入知恵でしたが飲んべの私はこの素晴らしい提案を快く実行した次第です。昼間はスキー、夜はウイスキーならぬ、スナップスキーで毎晩ご機嫌な毎日でした。
その頃にはこの村では私の存在はみんなに知れ渡っており日本人を見たことも無い人から良く声をかけられた、一番親しくなったのがウィーンから来ていた家族の一番下の男の子。彼に私は日本人だと言っても日本がどうもわからないようで、いつも私の事を名前で呼ばず、「キネーゼ、キネーゼ(中国人)」と
呼んでいた。私もあきらめ、ハイハイと聞いていたがこの子がなんとスキー場では怖さ知らずというのか、止まりかたも知らないのに一直線に滑り降り、転んでも転んでも一番上から猛スピードで降りてくる。こればっかりは私も真似できずにいた。
ある日自転車型のスキーを持ってきて滑り始めた、私も見たことが無いので借りて滑ってみたのだが自転車についているブレーキが無いのだ、スピードが出れば思わずハンドルを強く握り締めてしまうのだがブレーキがかかるわけでも無く、あまりにも怖いので直ぐに自ら転倒して止まるわけだが、この子がこの自転車型スーキーに乗ってスイスイ滑るのを見るとどうもシャクになってまた借りるのだがやっぱり怖い、私には普通のスキー板が似合っているようだ。
○ウィンターガーデン
○ウィンターガーデン(Ein Wintergarten)
レストランリンドマイヤーのウィンターガーデンは人気の部屋だ。
ウィンターガーデンとは冬の寒いときでも暖かく過ごせるように設えたガラス張りの部屋で、レストランリンドマイヤーでも南国を思い出させるような椰子や棕櫚の木などが沢山置かれていて、天井までガラス張りがしてあるため冬でも陽が当たっているときはぽかぽかと気持ちがいい。
夏の客はみんなシャニガルテンで食事をするのでここのウィンターガーデンは暇だが、秋から冬にかけてはウィンターガーデンが活躍する場だ。
このような施設は誰でもが希望するのだがアパート住まいには難しく、一軒家で多少余裕のあるものにしか出来ないようだ。これもピンからキリまであり、ウィーンの森の別荘地あたりには結構ウィンターガーデンが多いようだ。
ここで、お客様は日がな一日過ごすわけだが基本的に日本のようにテーブルの使いまわしはしないから一回お客が入るとそれでその日のテーブルは塞がってしまうので客もゆっくりしていく。日本だと今日は何回転したと売上自慢するがヨーロッパでは観光客相手のお店ならいざ知らず、普通は一回転のみだ。
一昨年お邪魔したレストランリンドマイヤーは、ガラス張りだった昔のウィンターガーデンはもう無くなり、客層もずいぶんと一般化したようだ。ウィンターガーデンは無くなっても、レストラン全体がガラスを多用しており、陽が当たれば冬でも暖かくなりそうだった。目の前がドナウ川なので雪のちらつく日でもガラス張りのレストランから眺めるのも悪くないようだ。
ウインターガーデンとして街を見渡すと、そのような施設は良く見かける。特にシャニガルテン好きな国民は冬でも陽が当たっていれば外でお茶をするのでレストラン側もシャニガルテンを簡易性の透明シートで包めるように用意されている。お店によってはガラスで完全に囲った固定式の立派なウインターガーデンを設えているお店もあります。
冬にウィーンをお尋ねになるならウインターガーデンでの食事は如何かな。
○リンドマイヤートルテとコーヒー
○リンドマイヤートルテとコーヒー
リンドマイヤー・スペシャリティーはヌーストルテ(クルミケーキ)。
でもウィーン菓子のヌーストルテとはちょっと違う。何しろクルミの量の多いことといったら、ちょっとやそっとの量ではないくらいクルミが入っている。泡立てた卵の中に入れるクルミはなるべくギリギリの量の小麦粉だけで、一般で使用される、卸したクルミの量をはるかに多く入れて作る、サンドするクリームの中もクルミの粉末。こう書くとちょっとしつこい味かと思われるがこれが美味しい。今ではどうなっているのか知らないが、ルディーの作ったヌーストルテは美味しかった。
ウィーンに行かれた方はご存知だろうがウィーンのケーキはびっくりするくらい大きいカットだ。その上リンドマイヤーでは生クリームを添えて出す。これだけ毎日食べ続けていたら太らないわけはない。それだけカロリーが高い。
ウィーンではホイップクリームを作るときはエスプーマという器具で作る。エエスプーマとはボンブの中に生クリームを入れ、そこに亜鉛化窒素ガスを注入し押し出してホイップクリームを作る簡易器具だ。日本では亜鉛化窒素ガスを飲食に使うことを禁じていたので中々日本に入ってこなかったが、やっと条件付で許可が下り、最近では日本のコーヒー店スターバックスでも使うようになってきた。
何しろこの器具は簡単で生クリームを入れ、栓をしてガスを注入、そしてこのボンブをよく振る。以上でホイップクリームの出来上がりだ。リンドマイヤーのコーヒーにはKaffee mit Obersという日本でいうカップの中にホイップクリームを浮かべたウィンナーコーヒーだが、リンドマイヤーではコーヒーに浮か
べる生クリームの量がものすごい。私も初めて飲んだときどうやってコーヒーまでたどり着くのかと思うくらい、コーヒーカップと同じ大きさ位の量のホイップクリームが乗っている。初めてお世話になるのでサービスで乗っけてくれたのかと思ったらお客さんに出しているコーヒーを見て、「同じだ」と、びっ
くりした。私もこのエスプーマを購入して使っているが家庭ではもちろん持て余すので注意。
エスプーマはオーストリアの会社の商品名です。またこの器具はオーストリアだけでしか作っていません。お買い求めになるのならオーストリアへ行かれた時にでもどうぞ、しかし亜鉛化窒素ボンベは日本にないので要注意。
温かいポタージュにエスプーマを使うとムース状のスープになり、ソースに使うと今まで味わった事のない味になったりと、使い方は貴方次第と書かれています。アイスコーヒーに使ったら面白そうな味になりそうですね。
日本で売られているものは亜鉛化窒素ボンベをリサイクルするように作られているそうです。
こちらのエスプーマのホームページをどうぞ。
http://www.espumas.at/
日本ではこちらをどうぞ
http://www.hrcweb.com/esupuma.html
○ラッシュアワーのケルントナー通り
○ラッシュアワーのケルントナー通り
私が初めてケルントナーシュトラッセ(通り)を歩いたのは、遥か40年前、1970年の4月下旬だった。当時のケルントナーシュトラッセは車のラッシュで通行に支障があるほど混雑していた。今は観光客もゆったりと歩けるように歩行者優先道路になっている。
このケルントナーシュトラッセは12世紀頃、レオポルド五世がウィーンを大規模に整備・発展させた際にこの通りは作られたということです。とても古くからあったんですね。名前もこの道をまっすぐ行くとケルンテン州まで行けますよという事なんだが、逆にいえばケンルンテン州からウィーンに農作物などの商品などがいろいろと運ばれてきた道路ということで、ウィーンの市場ノイエマルクト(Neuer Markt)はケルンテン州のいろいろな食材が並べられていたようです。ケルンテンからウィーンに来る途中、シュタヤマルク州も食材の宝庫ですからノイエマルクトも今も昔も食の宝庫です。ケルンテン州を更に下れば当時の文化の中心地、イタリアへもつながっています。
ウィーンの町はこのケルントナーシュトラッセを中心に栄えたといってもいい位、昔も今も有名店がひしめき合っています。
私の手元に100年前のケルントナーシュトラッセの写真がありますが、通りの入り口はサッハーホテルが写っています。通りは馬車がひしめき合って、昔から賑やかな通りだったんですね。
今は車こそ無いが、パフォーマー達が観光客目当てにあちこちに乱立している。一番多いのが台の上に乗ってじっと動かない大道芸人、チップのチャリンという音でわずかに動いてくれる。次に多いのが、音楽の都らしく音楽隊があちこちで名曲を弾いている。中には聞くに堪えないパフォーマーもいるが、押しなべて素晴らしい音楽を聞かせてくれる。私の住んでた40年前はヒッピーが多く、カラーチョークを使って、道路に大きな絵を書いてチップをもらっていた者が多かった。
今のケルントナーシュトラッセは世界中の観光客でごった返し、商店も昔のように100年・200年と続く老舗もあるが、いく度に新しい店が乱立しているのも少し寂しい気がします。
○ドナウ川のクルーズ船
○ドナウ川のクルーズ船
ドナウ川はご存知のように大きな川でよく大型客船や貨物用の大型船が行き来している。しかしたまにとてつもなく大きな大型クルーズ船が目の前を通るときはさすがに見入ってしまう。ルディーに聞くとこれはロシアの船で観光客が黒海から登ってくるそうだ。またスイスの会社などもこのクルーズを運行しており、時たま店の前を通り過ぎる。船客も暇なのかこちらが手を振ると船全体で手を振り返すのは壮大だった。いくらドナウ川が大きいとはいえ、これだけ大きな船だと直ぐ目の前に船が通過するのにはビックリだ。
クルーズ船の主なルートはブカレスト(黒海)~ニュールンベルグ間の航海で
約16日間かけて航海する。
ブカレスト、オルテニタ (ルーマニア)
シリストラ、ルーセ、ヴィディン(ブルガリア)
アイアンゲート (ルーマニア)
ベオグラード (セルビア・モンテネグロ)
カロッチャ、ブダペスト (ハンガリー)
ブラチスラバ、 (スロバキア)
ウィーン、メルク、リンツ (オーストリア)
パッサウ、レーゲンスブルグ、ニュルンベルグ(ドイツ)
何とも羨ましいクルーズである。
でも簡単なくルーズだったらウィーン~メルク間での船旅を推薦する。私も妻と子供の三人連れで休みを利用して行ってきた。
まずウィーンから列車でメルクまで行くわけだがヨーロッパの交通機関は乳母車に対しとても親切で、すんなりと旅行できるのも弱者に対する考えが日本とまるで違う、最近の日本はやっと弱者に親切になったようだ。
閑話休題
メルク、ウィーン間の観光船の情報は、どのガイドブックにも載っているので参考にしてほしいが、このコースは是非お勧めする次第である。
○小切手帳
○小切手帳
最近では「小切手」なんていう言葉は死語に近くなったような気がしますが、それは私だけのことでしょうか。
私がオーストリアの銀行、グラーベン通りにあるSparkasse(貯蓄銀行)において「小切手」の口座を開いたのが初めてで、多分これ以降は使うこともないので最後かと思います。
何でオーストリアの銀行で口座を開いたのかというと、ウィーンの「ホテル・インターコンチネンタル」で働いていたとき、支払いは銀行振込で引きおろしは小切手帳をもらったのですが、もらったのはいいとして、初めてなのでどうしていいのか分からない。経理の人もここに金額を書いて渡せばくれると言わ
れたのですが銀行に行って、いざ引き落としを試みるのですが判らないので行員に聞くと金額欄は日本でも漢字で記入しますが、オーストリアでも数字ではなくてドイツ語で記入しなくてはならず非常に困った記憶があります。例えば半端な数字の15,326シリングだとすると、funfzehntausent dreihundert
sechsundzwanzigと長ったらしく記入しなくてはならず、記憶が定かでないスペルは書きなぐって誤魔化した思い出があります。
銀行というとすぐに思いつくのがセキュリティーがしっかりしている『スイス銀行』を思い出しますが、オーストリアの銀行も犯罪に関っている場合を除き、銀行が口座情報の守秘義務を負うことになっています。日本では普通預金口座を開設すれば、貯金のみならず、振替も出来ますが、オーストリアでは一般的に振替口座(Girokonto)と貯金口座(Sparkonto)に分かれています。
どうでしょうか、あなたもオーストリアの銀行に預けて見ませんか?でも今は世界不況でどこの銀行も金利は大した事はないでしょうね。
○交通マナー
○交通マナー
もう40年前の話で申し訳ないが、ヨーロッパの列車運行はひどいものだった。
1時間2時間遅れるのは当たり前で、オーストリアの友人に日本では5分10分遅れると新聞に載ると冗談を言ったら、日本では正確に運行されているのだろうがこっちでは1時間くらい遅れるのは仕方ないと、あきらめ顔だったのを思い出す。
フランスで列車に乗っていたとき急に停車したら今からデモなので運休だといわれ列車を追い出されたことを思い出した。最近ではこのように極端に遅れることも珍しくなったようですがラテン系はおおらかなのか、フランスやイタリアからの国際列車はまだ少し残っているようだ。オーストリア、スイス、ドイツの国は昔からかなり正確だったし、今では、ほぼ正確に運行されている。
ウィーンの友人の車に乗ると、彼の交通マナーがいいのには勉強させられる。街中でも日本よりかなりのスピードで走るのだが、横断歩道が見えると必ずスピードダウンする。日本では信号機がないと車優先で歩行者は車が来ないことを確認して横断するが、オーストリアでは横断者がいると車優先でなく歩行者のために必ず止まる。まあ、人にもよるのだろうがドイツ語圏の人たちは歩行者優先で運転する。これは自転車にもいえる事で、歩行者にも十分に気よつけて運転している。日本のお母さんのような赤ちゃんを同乗させての運転は見た事がない。
それとまったく逆なのがフランスやイタリアで、特にイタリアは南部に行くほど交通ルールが守られていない。
ナポリに行った時、イタリア人は赤信号でも車は止まらないので注意しなさいと聞いていたので、試しに本当なのか信号機のボタンを押して隠れて見ていたが、最初の車は減速してきたが誰も渡りそうにないと見るとそのまま赤信号を無視して行ってしまった。その後に続く車もその車を見て減速もしないでかな
りのスピードで赤信号を無視していった。イタリア人に言わせると「青信号は進め、赤信号は気よつけて進め」だそうです。困ったもんですね。
○シュトラッセンバーンの抜き打ち検査
○シュトラッセンバーンの抜き打ち検査
海外でトラム(市電)に乗る場合、簡単に乗車できるため無賃乗車する人が絶えません。ウィーンも同じでウィーンではトラムのことを「シュトラセンバーン」といい、シュトラッセ=通り、バーン=電車、ということでトラムという言い方よりも私が気に入っている名前です。
長期滞在で働く場合は月間の定期券を買い、観光客でも週間のウィークリー定期券を買う人も多い。国により乗車券使用方法に多少の違いは有るが、ウィーンのシュトラッセンバーンは一方通行であるある限り、どこまで行っても同料金で乗車できる。シュトラッセンバーンに限らず、市内を走っているバス、地
下鉄、鉄道、どれを乗ってもいいが、目的地へ着いたらその切符は無効となる。切符の種類も豊富で、定期券のほかに、一回券、一日券、八日券、などなど観光客にはうれしい種類だ。乗車券は車内でも購入できるが少し割高になるのでみんなキヨスクなどで事前に購入しておく。乗車すると入り口に乗車券を印字
する機械があるのでそこを通して初めて効力を発行するのだがここを通さずそのまま乗車してしまう、不埒な輩がたまにいる。
そこで活躍するのが抜き打ち検査官だ(正式名は分かりません)。彼らは私服で乗車してくるので検査官であるというバッチを提示し強制的に切符の検査に入る。彼らはいきなり乗車して検査に入るものもいるが、少し乗車して乗換駅でないことを確認して切符を通さないものがいたらいきなりバッチがお目見えする。私もその中の一人として検査を受けたが定期券を持っていたので良かったが、隣の人物が無賃乗車と分かり次の駅で強制退去させられ、多分莫大な罰金を払わされるのだろう。公共機関は皆の信頼で成り立っているのでくれぐれも無賃乗車はお控えください。