Das Kochen von Wien    ウィーン料理

Nicky's Kuchlmastereiキュッヘルマスタライ前菜料理

フランス料理はありますが、パリ料理ってあまりいいません。イタリア料理も  同じくローマ料理、フィレンツェ料理というよりもイタリア料理と言うことの 方が多いのかもしれません。オーストリアではオーストリア料理というよりもウイーン料理ということのほうがぴったりくる言い回しです。これはこの国の成立ちである歴史上の多民族  国家のせいかもしれません。神聖ローマ帝国の大公領という事もありハプスブルグ王朝は広大な土地と11の  多民族を抱え、これらの食文化がウイーンに終結し、ウイーン料理・ウイーン文化として取り込まれていったわけです。こんなウイーン料理を少しづつ紹介していきます。もちろんエピソードも添えて・・・・

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ウインナーシュニッツェル

ウインナーシュニッツェル

ウイーン料理、初めはやっぱり「ウインナーシュニッツェル」でしょう。これはご存知の方も多いかと存じます。(料理も歴史も)スペインからイタリアに伝わり、そしてウイーンへ伝わったとされています。イタリアではcotoletta alla milanese(コトレッタ アッラ ミラネーゼ)といい、元来はcostoletta alla milanese(コストレッタ アッラ ミラネーゼ)といって、骨付きのロース肉(costolettaコストレッタ)が使われたのがウイーンに伝わったものです。
俗に1848年の3月革命時、ラデツキー将軍が当時オーストリア帝国領だったミラノの暴動を鎮圧に行き、そこで知ったcostoletta alla milanese(コストレッタ アッラ ミラネーゼ)を持ち帰ったと言うのが始まりと言う説があります。

ややこしいことを一つ、もともとイタリアではcostolettaコストレッタといい、これがフランスに渡ってcotoletta コトレットになり、これをイタリア語読みにして、cotoletta コトレッタになりました。フランス語のコトレットが日本に入りカツレツになったことは皆さんご存知ですよね。

更に疑問
ウインナーシュニッツェルは何故あんなに薄く延ばすのでしょう。これは仔牛の繊維が細かく入り組んでいてそのまま焼いても硬くなるので叩くことによって繊維をつぶして柔らかくしているのです。そのまま食べても美味しいですが叩くと更に美味しくなることをウイーンの人は発見したのですね。
日本に帰ってきてこのウインナーシュニッツェルを作った方も多いかと思います。でもウイーンで食べたものとちょっと違うように感じた方もいたのでは、それは揚げる油が違うからです。
いま日本ではサラダオイルを使うのが主流です。ですがウイーンではラードで揚げています。何故ラード??それは融点が違うのです。豚の脂であるラードの融点は低く27~40度です。これは揚げ物に向いた脂なのです。家庭では火力が弱い為ラードを使って揚げ物をすると温度が急激に下がって脂っこくなってしまうこともあります。なるべく大量のラード使って揚げ物をすれば温度が急激に下がることもないのですが、家庭では難しいですよね。からっと揚がるのがラードです。
そしてさらに美味しい脂が『バター』です。ただしそのまま使っても焦げるだけです、バターは分離させて上澄みの脂部分だけ使用します、そうする事によって焦がす事はありません。しかしバターもたっぷり使わなくてはいけませんよ、バターは高くてもったいないと思ったら使わない方がいいでしょう、美味しい料理を作るにはそれなりの材料費がかかります。
脂・脂・脂と書きましたが健康面の事を考えて脂から油へと移ったのも分からないわけではありませんが・・・・。

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〔1848年 ラデツキー将軍、3月革命時の各地の出来事〕


1848/02/23,弘化5/01/19

   アダムス(Adams,John Quincy)没。80歳(誕生:1767/07/11)。

   アメリカ第6代大統領。 

 

1848/02/27,弘化5/01/23

   ドイツ、バーデン大侯国でマンハイムの市民の集会が開かれ、国民の自由、

   出版の自由、ドイツ国民議会の開催が要求される。

 

1848/03/05,弘化5/02/01

   南ドイツ諸国の51名の自由主義の連邦議会議員がハイデルベルクに集合し、

   国民議会の開設を決議する。

 

1848/03/12,弘化5/02/08

   ウィーン大学で学生大会が開かれ、皇帝に対する印刷・教育・信仰の自由

   に対する請願書が作られる。

 

1848/03/13,弘化5/02/09

   ウィーンに暴動が起る。メッテルニヒが退陣する。



1848/03/14,弘化5/02/10

   ウィーンの宰相メッテルニヒがロンドンに逃亡する。 

 

1848/03/18,弘化5/02/14

   ミラノにオーストリアの支配者に対して革命が起る「ミラノの五日間 」

 

1848/03/23,弘化5/02/19

   イタリア、サルディーニャ国王カルロ・アルベルトがオーストリアに宣戦

   布告する。   

1848/04/25,嘉永1/03/22

   オーストリアで欽定憲法が発布される。

 

1848/04/29,嘉永1/03/26

   フランツ・ヨーゼフ大公が、軍隊経験を積むためヴェローナのラデツキー

   将軍のもとに至る。

  こんな時代でした・・・・・・・・・・・・・・・

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