オーストリアの歴史???  Nr.1  Nr.2LinkIcon  Nr.3LinkIcon

ゲルマン民族

ゲルマン民族

ゲルマン民族というとすぐに思い出すのはドイツ人。そうです、ドイツ人はゲルマン民族なのです。ですがドイツ人だけがゲルマン民族ではないのです。アングロ・サクソン人(イギリス人、アメリカ・オーストラリアの白人の祖)ノルマン人(スウェーデン・ノルウェー人の祖)フランク人(ドイツ・フランス人の祖)フリース人(オランダ人の祖)というように、ヨーロッパ人の大半はゲルマン民族なのです。その特徴としては、金髪 、青色の目、白色の肌、角ばった頬などですがそういえばどことなく似通っているのかな~~。イギリス人もゲルマン人、フランス人もゲルマン人、オランダ人も・・・・
そうなんです、人類皆兄弟、何で戦争なんかしたのかわかりません。ハプスブルグ家の家訓。戦(いくさ)は他国に任せておけ,幸いなるオーストリアよ汝は結婚せよ。
確かに、いい教訓でありますな。

カサブランカ

カサブランカ

1943年の「カサブランカ」という映画はご存知だろうか、50歳以上の方だったら、ああ、ハンフリーボガードとイングリットバーグマンが主演の映画だねと、すぐにお分かりの事でしょう。
若い方々も、「君の瞳に乾杯」とか、「夕べはどこにいたの?」「そんな昔のことは覚えていない」「今晩会える?」「そんな先のことは分からない」なんていう、せりふをどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。実はこのモデルとなった人物が、オーストリアのリヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の事なのです。このハンフリーボガード主演の映画、イルザの相手役ラズロがクーデンホーフ・カレルギー伯爵で、実は日本人だったって事は知っていましたか?
このカレルギー伯爵のお母さんは青山光子といい、明治時代、オーストリア・ハンガリー帝国の外交官クーデンホーフ・カレルギー伯爵に嫁いだ日本女性なんです。彼女の二男が日本名「栄次郎」という、リヒアルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵なのです。
イングリットバーグマン演じる(イルザ)が一緒に逃避行をするご主人(ラズロ)と酒場の主人(リック)とのモロッコで繰り広げられる三角関係。これが栄次郎と奥様イダ・ローランです。
青山光子は社交界でも有名で、ゲランの香水「ミツコ」は彼女から命名したとか、しないとか・・・・。ちなみにこの香水30ml・3万4650円だそうです。
閑話休題
栄次郎・カレルギー伯爵は欧州統合を目的とする汎ヨーロッパ運動の創始者としても有名です。この思想はやがてEEC、EC、そして現在のEUとなっていったのです。
映画の内容は端折りますが明治時代にオーストリアと関係の深い人物がいて、その人物が世界をも動かしていたなんてすごい事ですね。何処からか、カサブランカの主題歌「As Time Goes By (時の過ぎ行くままに)」という音楽が聞こえてくるようです。

ウィーンのカフェ

ウィーンのカフェ

ウィーンに行かれた方も、ウィーンに興味がある方もご存知なのがウィーンのコーヒーハウスではないでしょうか。【オーストリアの歴史】と謳っている割には、毎回程遠いテーマでの語り口で進んでいますが【??】が付いているように、学校で習う歴史からは、ちょっぴり外れて紹介しているコーナーです。
と、言う事でウィーンを語るには、カフェの文化も知らなければならないでしょう。これには、コーヒー以外に「クロワッサン」の事にも触れなければなりません。
《ウィーンのカフェ事始》
1683年9月11日(天和3年7月21日) オスマン軍に包囲されているウィーンは絶対絶命の危機を迎えていた。応援の到着を今か今かと待ちわびていた頑強なウィーンの街も勇猛なオスマン軍の前に明日をも知れぬ最後を迎えていた。外壁で守られていた(今のリンク)ウィーンの街を陥落させようとオスマン軍は夜中にトンネルを掘って攻め込もうとしていたのだが、朝の早いパン屋がパンを焼いている時、厨房で耳慣れない物音がしているので辺りを見回しても誰もいない、耳を澄ますと、どうも地下から物音がする、これは何者かがトンネルを掘っているのではないかと気づき、もしかしたら今、攻め込んできているオスマン軍かも知れないと気づき、さっそく軍に報告した。オーストリア軍はこの敵の侵略作戦を阻止しようと懸命に抵抗したため、オスマン軍を蹴散らすことが出来ました。このパン屋の気転が無ければウィーンの街はどうなっていたか、わかりません。難を逃れたオーストリア軍ですが、その後ポーランド王ヤン3世ソビエスキ(54)の率いる10万のヨーロッパ混成軍が到着し、 9月12日、ヨーロッパ混成軍がウィーンの北方でオスマン軍を破ったのです。オスマン軍はベオグラードへと撤退していったのです。
見事オスマン軍を蹴散らしたきっかけを作ったパン屋は皇帝や国民から多いに称えられたそうです。そしてこのパン屋は皇帝にオスマン軍の国旗に描かれている三日月形のマークを模ったパンの製造を願い出た所これを許され、売り出したところ「オスマン軍を食らう」という、洒落が受けたのか大いに儲けたそ
うです。
その後、このパンはウィーンに定着し今でも「キッフェル・ブロート」(三日月パン)として残っています。この当時オスマン軍は何処の国からも恐れられていたので、このパンはヨーロッパ中に広まったようです。特にフランスでは人気があったようで、三日月のことをフランス語で「クロワッサン」というのはご存知の通りですね。
「クロワッサン」も、マリー・アントワネットが輿入れした1770年頃は、普通の三日月パンでしたが、バターを使って折パイのように作っていく今のような「クロワッサン」が登場するのは1906年になってからです。パリの菓子職人、オギュスト・コロンビエは自分の「ブルジョワ風菓子店」で現在のようなクロワッサンを作り始め、その後、いろいろな職人たちがこの新しい「クロワッサン」作りに挑んでいったのです。昔からあるように思われるこのパンは実はまだ百年も経っていないのですね。
「クロワッサン」はウィーン生まれのパンなのです、「クロワッサン」を召し上がる時はウィーンの街を思い浮かべながら召し上がってください。オスマン軍が去った後に大量のコーヒー豆が残されていたのですが、まだコーヒーというものを知らないウィーンの役人は捨てるつもりだったのですが、オスマン軍の伝令またはスパイとして働いたコルシツキーという人物が何も知らないウイーンの役人から、伝令の礼にと譲り受け、ウイーン初のコーヒーハウスを開いたのがウィーンのカフェ文化の始まりとされています。
が、しかしこの話も一つの説であって実際にはそれ以前からウィーンには、コーヒーがもたらされていたようです。
ウィーンが世界初のコーヒーハウスということではないのですが、音楽家、政治家、文化人などに愛されたウィーンのカフェはいまなお、皆に愛され続けられているのです。ウィーンにお寄りの際には是非ともお立ち寄り下さい。

各国の初のカフェハウスの歴史を並べてみました。
1554年コンスタンチノープル(トルコ)
1645年ベネチア(イタリア)
1650年オックスフォード(イギリス)
1671年マルセイユ(フランス)
1679年ハンブルグ(ドイツ)
1683年ウィーン(オーストリア)

ウィーンのコーヒーにはさまざまなものがあります。(一部のみ)

『メランジュ Melange』
ウィーンで最もよく飲まれているコーヒーです。泡立てた牛乳が入っています。昔は牛乳でなく山羊の乳だったそうです。

『ブラウナー Brauner』
生クリームまたはミルク入りのコーヒー。大(グローサーGrosser)と小(クライナーKleiner)がある。

『カプツィーナ Kapuziner 』
ホイップクリームを浮かせカカオの粉をふったもの。

『モカ Mocca』
濃いブラックコーヒー。シュヴァルツアーともいわれる。小さなデミタスカップで出される。

『アインシュペナー Einspaener』
たっぷりのホイップクリームが入っています。背の高いグラスで供されるのが正式。日本で言われている「ウィンナーコーヒー」はこれから来たようです。

『アイスカフェ Eiskaffee』
日本のアイスコーヒーと違い、グラスにバニラアイスを入れ、冷たいモカを注いでホイップクリームを添えたもの。

( 追 記 )

昔のウィーンの街の近くは牛よりも山羊が多くコーヒーにはもっぱら山羊乳が使われていたようです。
1867年パスツールがバクテリアは摂氏55℃で殺菌されると発表。
これで牛乳も遠くへ運搬できるようになり1913年、電気冷蔵庫が発明され、食品保存の歴史が変わりました。

ハプスブルク家の起源

ハプスブルク家の起源

オーストリアといえばやはり、ハプスブルグ家を語らないわけには行かないでしょう。
元々ハプスブルク家はスイスのバーゼルのほぼ東側にある、ブルックの弱小伯爵家でした。この、ハプスブルクという名前も大鷹或いは鷲 (Habichit) の城 (Burg) という意味で、その歴史は10世紀後半頃から始まりました。ハプスブルグ家は、名門だが貧乏で弱小なオーストリアの一貴族にすぎません。マクシミリアンの父フリードリヒ三世は神聖ローマ帝国の国王だったのですが、これは神聖ローマの王を選ぶ選帝候たちが有能な専制君主を欲していなかったのです。なぜなんでしょう。ようは、選帝候たちに対してイエスマンであったら良かったんですね。だが選帝候たちの間違いが生じたのです。フリードリヒ三世は他の選帝候達よりも長生きでした、そのため次のローマ帝国皇帝を選ぶ際に自分の息子マクシミリアンを選んだのです。このマクシミリアンは「中世最後の騎士」というあだ名をもつ、騎士振りがよい人物でした。マクシミリアンはブルゴーニュ家のたった一人の跡取り娘[マリア]と結婚し、ハプスブルク家の繁栄を築き上げたのです。

ウィーンの名前の由来

ウィーンの名前の由来

ウィーンという名前がいつ頃出来たのでしょう。ウィーンというこの名前が初めから付けられていたのではないのです。ローマは紀元前15年頃から領土の拡大を開始するため、ヨーロッパ各地をローマの属国とする為、侵攻していきました。一世紀頃、北部にはゲルマン系の部族がいて彼らの侵略を防ぐため、ローマ帝国軍はいまの「ウィーン」の辺りまで来て、軍事基地を作りました。この軍事基地の名前をローマ人は「ヴィンドボナ」と呼んでいました。
ヨーロッパは当時の「ヴィンドボナ」を境にし、ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)がローマ帝国の平和を維持するためにゲルマン人と戦っていたのです。ローマ軍としてはゲルマン人をもっと北の方に押しやりたいのですが、ドナウ川を境に攻防していたのです。(ドイツのアウグスブルグはアウグストゥス皇帝の名前からなので実際にはドナウより北へ進行しています)ゲルマン人との攻防は長くに渡り、「ヴィンドボナ」は要塞化していき街は頑丈な城壁で囲まれました。これが現在のリンク(ウィーン)にあたります。
771年にフランク族カロリング王朝の皇帝となったカール大帝はフランス全土を統一した後、東へと領土拡大していくのです。791年から799年の間にカール大帝は当時ドナウ地域に定住していたアヴァール人を征服し、この地域を『アヴァール辺境領』と名付け、キリスト教の影響下に置くことに成功します。
その間北方のモラヴィア国とカロリング王朝との摩擦は続き、ハンガリーの騎馬民族マジャール人が870年から880年頃カロリング王朝の東領域に侵入してき、この出来事がザルツブルク年代記の中で881年に"ad Uueniam"(なんと発音するのでしょうか)ウィーンにおいてハンガリーとの戦闘があったと語られています。ウィーンという名前が文書の中に現れるのはこれが一番最初といわれています。
996年オットー二世の贈与証明書の中に初めて『オーストリア(Ostarrichオスタリチ)』という名前が出てきます。これは東 (ost) の王国 (rich) という意味です。 この出来事をもって、この年がオーストリア誕生の年とされ、1996年にはオーストリア千年祭が盛大に祝われたのです。1030年には再び"Vienni (ウィーン)"という地名がハンガリーとの戦争に関する記述の中に現れるのですが、はっきり今日からこの都を「ウィーン」と名づけると言う文章がありません。東西の掛け橋となっているいまの「ウィーン」は昔から世界の中心地だったのですね。

ネクタイの由来

ネクタイの由来

4月といえば初々しい新入社員がリクルートスーツにネクタイをきりりと締めた姿が、あちらこちらに見受けられます。このネクタイがハプスブルグ家と関わりが有る事はご存知でしょうか。そもそもネクタイの歴史は2世紀初頭、ローマ兵が敵地に向かう際、兵士の無事を祈って妻や恋人たちが「お守り」として首に布を巻いたのが始まりといわれています(弁士がのどを守るため巻いた説もある)。スカーフのような布だったので防寒の意味合いも有ったのでしょう。ローマ兵はクロアチアまで遠征しましたのでクロアチアの習慣として引き継がれました。そして、16世紀にはハンガリーと共にクロアチアはハプスブルク帝国の下に組み込まれたのです。勇敢なクロアチア兵はハプスブルグ家の傭兵として雇われ勇敢に戦いました。傭兵は毎回無事に帰還できるかどうかわかりません、兵士の無事を祈って妻や恋人たちがクロアチアの習慣となった「お守り」として首に布を巻き無事を祈ったのです。その頃には首に巻いた布を見るとすぐにクロアチア兵と判り恐れられたようです。その首に巻かれたものはクロアチア語でKravata(クラヴァッタ・(クロアチアの))と呼ばれたのがドイツ語でKrawatte(クラヴァッテ・(ネクタイ))になりヨーロッパに広まったのです。ハンガリー語でもKravat、ポーランド語でもKrawatといいます。

スーツの原型は軍服から出来ています、コックさんが着ているコック服も軍服が元になっています。この軍服の第三ボタンまでを外して開襟にした状態が今のスーツの原型です。スーツの左襟にあるバッチ等つける穴は軍服を広げた第二ボタンの名残です。
ヨーロッパ中に響き渡ったクロアチア兵は、その勇壮な戦い振りに「太陽王」と呼ばれたルイ14世が高給で雇い入れ、今度はブルボン家に仕えたのです。フランス語でもCravateと言われるのもクロアチア語からきています。ついでにイタリア語はCravatta、ポルトガル語はGravataです。英語、米語のタイ・ネクタイは世界的に見れば一般的な言葉ではないようです。

サラェボ事件

サラェボ事件

オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナンド夫妻の暗殺で第一次世界大戦が勃発した事は皆さんはご存知の事と思います。これは、1914年6月28日、サラェボで18歳のセルビア人の学生、ガブリロ・プリンチップによってブローニング拳銃で暗殺された事件です。暗殺者は6名、一人目二人目と失敗、皇太子の車に爆弾を投げつけたが不発し、後続の車が被害に遭い失敗したと思い三人目・四人目の暗殺者は帰ってしまった。五人目の犯人ガブリロ・プリンチップも失敗したと思い軽食屋に行く、六人目の暗殺者は警官と人が多く皇太子の姿も見る事が出来ないのでこれも諦めてしまった。皇太子は後続車の被害者を見舞うため病院に行く途中、交差点で軽食屋にいたプリンチップが皇太子を見つけ、皇太子の車のステップに乗りブローニング拳銃を手に持ち皇太子と皇太子妃に二発撃ち込んで即死させた。暗殺者六人のほかに見届け人のイリイッチが徘徊している所を警察に尋問され犯行を自供して六人全員が逮捕された。時に皇太子フランツ・フェルディナンド51歳、皇太子妃ゾフィー・ショティク46歳でした。
この事件はバルカン問題、スラブ民族、ゲルマン民族自決運動など等いろいろな問題がありました。この暗殺によりオーストリアがセルビアに宣戦布告、これがパン=スラブ主義のロシアとパン=ゲルマン主義のオーストリア、ドイツの激突となり、さらにロシアと三国協商により結ばれたフランス・イギリスの参戦を招いて第一次世界大戦(1914~1918年)となって行ったのです。そして、第二次世界大戦を始めたのがあの「ヒットラー」です。ご存知のように、「ヒットラー」はオーストリア人です。
一度ならず、二度も不幸な出来事を起こしたオーストリア。こんな事で歴史に名を残して欲しくなかったですね。歴史に「if(イフ)」は、ないといったのは誰だったんでしょうね。

アントワネットのギロチンは日本が関わっている

アントワネットのギロチンは日本が関わっている

アントワネット(オーストリア名アントニア)のギロチンは日本が関わっている、なんとセンセーショナルな題名なのでしょう。
フランス革命の露と消えたアントワネットの運命は、母マリア=テレジアはある程度予感していたと思われるくらい頻繁にアントワネットに手紙(現存)を出していました。
マリア=テレジアは16人もの子供を産み、アントワネット(第9子)を非常に可愛がったそうです。政略結婚というべき後のルイ16世との結婚は、アントワネット14歳のときでした。
当時の結婚で14歳というのは余りにも早すぎるということでもないようですが平均的に16~7歳のことを考えれば少し早かったのかと思われますが・・。日本でも十代後半の結婚が普通で、過ぎると年増といわれ、30前には大年増といわれた時代です。(今の22~3歳の女性に年増といったらセクハラで訴えられますね)
我がまま奔放に育ったアントワネットは不安を抱えながらもフランスに嫁ぎます。フランスでは新しい皇太子妃を大歓迎しますが、アントワネット自身は夫の包茎のために夫婦生活はうまくいかず、フランスを余り理解できない生活空間で唯一の楽しみは自分のためのパーティーで、気分を紛らわせることでした。はじめの頃はアントワネットに好意を寄せていた国民でしたが、度重なる政治不安や重税に喘でいる国民は毎日の贅沢な生活を送っているアントワネットを影で罵るようになったのです。アントワネットにすれば、毎日の不安を紛らわせるには、このような事しかなかったのかも知れませんが政治にまったく疎いというのも当時としてはどうなのでしょうか、政治は男の仕事と割り切っていた時代です。政治に口を出せば疎まれ、口を出さなければ出さないで無関心だと言われる時代だったのでしょう。
フランスでの大飢饉が国民の鬱憤を爆発させました。食料に事欠く毎日と取立てられる重税にとうとう国民の怒りが頂点に達しフランス革命へと発展していったのです。そうして、ハプスブルク家の星がまたひとつ消えました。
えっ、どこに日本が関わっているのかって?
1783年、日本の浅間山が大噴火しました。山が燃えたといわれるほどの「浅間焼け」と呼ばれました。噴火した火山灰の粒子は天空に堆積し、ヨーロッパの太陽を遮断しました。日本の地理学者が発表した学説ですが「1788年のフランスの凶作は浅間山の噴火が原因」と発表しました。フランス革命の原因は旧制度の危機、階級制度の矛盾、経済危機、啓蒙思想等などいろいろ言われていますが、フランス革命は浅間山が噴火したため、作物が出来なく、飢えに苦しんだ国民が原因という見方は私のうがった見方でしょうか。
あなたはどう見ますか?

ユリウスマインルと田中路子

ユリウスマインルと田中路子

田中路子      1909年~1988年5月18日(享年79歳)
ユリウス・マインル1873年~1943年5月16日(享年70歳)
結婚期間      1930年~1941年 11年間

ウィーンの中心街を散策すると必ず目にとまるのが高級スーパーマーケット「ユリウス・マインル」です。この店はオーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインルが経営するお店です。ウィーンといえばカフェー文化が今でも続いているお国柄ですから、コーヒー王と呼ばれるユリウス・マインルはかなりのお金持ちです。ここの奥様が日本人、田中路子氏です。青山光子氏といい日本女性は海外でがんばっているのですね。
この田中路子というのはどんな女性だったかというと、1909年高名な日本画家田中頼璋の娘として神田に生まれ根岸で育ち、小学校時代の同級生には中村勘三郎がいたそうです。
田中路子は東京音楽学校で声楽を学んでいるときに、チェロ奏者斎籐秀雄と道ならぬ恋に落ち、そのほとぼりを冷ますために、両親の意向でウィーンに留学しました。そこでオーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインルに出会います。結婚時に路子21歳マインル57歳と年齢の離れた二人でしたがマインルの薫陶と当時の知識人・文化人との交流で次第に中欧文化の粋とも言うべき教養を身につけていったのです。その時のオーストリアは1929年に始まった世界大恐慌の真っ只中で、1933年にはヒットラーが首相に就任。1939年には第二次世界大戦がはじまりました。そんな激動の中での結婚生活でした。1931年10月20日にドイツ映画「会議は踊る」がヨーロッパで封切りされ、ウィーンが注目された年でもあります。
今、日本の財団法人日本音楽教育文化振興会が主催する事業の一つに田中路子賞というのがあります、これは声楽部門の賞で有能なソリストを発掘し優秀な人材育成並びに声楽技術の啓発を目的とするものだそうです。
高級スーパーマーケット「ユリウス・マインル」は数年前に、デリカテッセン、レストラン、出張パーティー、お土産などそろえて新規オープンしました。場所はグラーベン通りです、日本・オーストリア食文化協会のメンバーであるSCHOKOLADE KOENIG(チョコレートの王様)店のすぐそばです。

コーヒー王の店ということでここのコーヒーの味には定評があります、このコーヒーを日本でお求めになるのなら神奈川県藤沢市湘南台のフレイ延齢堂で
購入できます。 
フレイ延齢堂
http://cake-cake.net/frey こちらからどうぞ。

【追加情報】
今、オーストリアのディスカウントストアー(DS)、ホーファー「Hofer」は少品種大量仕入れで低価格を打ち出したDSとしてウィーンで評判です。このお店は「ユリウス・マインル」の元従業員ヘルムート・ホーファー氏が立ち上げました。サービスは「ユリウス・マインル」と同じで、値段は低価格です。ウィーン土産もありきたりの物よりもウィーン子が日常利用しているものをお土産にしてみるのも面白いのでは。

神聖ローマ帝国の成り立ち(1)

神聖ローマ帝国の成り立ち(1)

このコーナーは「オーストリアの歴史??」ということで小難しい話でなく、映画「カサブランカ」はクーデンホーフ光子の二番目の息子とか、ネクタイの由来はクロアチアの傭兵からとか、高級スーパー「ユリウス・マインル」の奥様は日本人田中路子とかオーストリアの歴史からは程遠い傍系の話ばかりですが、オーストリアを語るには「神聖ローマ帝国」の成り立ちについて、少々まじめな話をしなければなりませんね。ちょっと堅苦しくなるかと思いますが、最後までお読みください。
まずは簡単に、キリスト教の話からしなくてはなりませんね。イエスの生まれた日はご存知ですか。紀元元年と思っている方も多いかと思います。実際に西暦とはイエスの生まれた年から数えているのですからそう思うのがあたりまえです。
実は紀元前4年頃と言われています。誕生日も12月25日のほかにも1月説など多数ありますが、今は12月25日で落ち着いていますが生まれは4年ずれているようです。なくなったのは紀元後30年頃です。処刑後弟子のペテロがイエスはキリスト(=救世主)とみなす信仰集団を結成しました。これがキリスト教です。この教えは階級・民族を超えローマの中に浸透する要素となり、始めは迫害もされましたが、信徒があまりにも多くなりコンスタンティヌス帝はキリスト教を弾圧するよりも、神の保護者になったほうが得策だと考え、キリスト教公認令を出しました。これをミラノ勅令(313年)といいます。
このようにしてローマ帝国の国教となったわけですね。そしてローマ帝国は395年、アドリア海を境に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分かれました。東ローマ帝国はビザンツ帝国として1453年間で1000年以上の歴史を記しましたが西ローマ帝国は100年とは持ちませんでした。西ローマ帝国が滅んだのはゲルマン民族の侵入です。476年、西ローマ帝国は滅んだのです。
そして領内には西ゴート王国、ヴァンダル王国、東ゴート王国など、いくつものゲルマン国家ができました。その中でも481年に成立したメロヴィング朝フランク王国は注目に値します。ドイツのフランク族がライン川、マイン川を越え、旧西ローマ帝国内のガリア(現フランス)の勢力を拡大したのです。フランク族がマイン川を渡った地点は、今、フランクフルトという地名で残って
います。・・・・・

神聖ローマ帝国の成り立ち(2)

神聖ローマ帝国の成り立ち(2)

ガリアに進行したゲルマンフランク族、西ローマ帝国は滅んだのですが、残された市民は同じキリスト教の仲間としてフランク王国を築きました。そしてフランク王国は今の西ヨーロッパをほぼ統一し、ビザンツ王国(東ローマ帝国)と肩を並べるほどの勢力圏を作りました。フランク王国の活躍にローマ教会はフランクの役割を高く評価し、カール大帝を「西ローマ帝国の継承者」とみなし、800年12月25日西ローマ皇帝の即位式がローマ市サン・ピエトロ大聖堂で執り行われました。これが『カール戴冠』です。これで西ローマ帝国の復活です。
ところが9世紀にはいるとカール大帝の孫たちによってフランク王国は三つに分割されそれぞれ西フランク(843~987年)フランス、中フランク(843~875年)イタリア、東フランク(843~911年)ドイツとなります。870年にメルセン条約が結ばれそれぞれが今のフランス、イタリア、ドイツの形になり、10世紀には三つの王国は消滅していまい、西フランクはカペー朝、東フランクはドイツ王国として成立しますが、中フランクは王家断絶で分裂し統一国家イタリアは1861年まで待たなければなりません。今のイタリアはまだまだ新参者で144年しか経っていないのですね。
今度は東からの遊牧民★マジャール人が大挙してヨーロッパに侵攻してきたのです。ドイツのアウグスブルグ付近のレフィフェルトの戦いで、マジャール人を撃退したのがオットー一世なのです。
この活躍ぶりを見たローマ教皇はフランクにかわる新たな西ローマ皇帝として迎え即位式を行いました。これをオットー戴冠といい神聖ローマ帝国(962~1806年)の誕生です。
オーストリアは1438年、神聖ローマ皇帝の継承権を獲得し、帝国崩壊の1806年まで続きました。
如何でしょうか、神聖ローマ帝国の成り立ちを簡単に述べたので不備なところがあったかもしれませんが、こんな神聖ローマ帝国の首都『ウィーン』に見せられた「日本・オーストリア食文化協会」のメンバー達です。これからも食文化協会を宜しくお願いします。

★マジャール人=ウラル山麓を原住地とするアジア系遊牧民。後にハンガリー王国を建国する。ハンガリー国民は今も赤ちゃんのお尻には日本人と同じ青あざ(蒙古斑)を持っています、FUN(フン族)のガリア浸入に国名ハンガリアの由来があります。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』に見るオーストリア

映画『サウンド・オブ・ミュージック』に見るオーストリア

"サウンド・オブ・ミュージック"の映画を知らない若者でも、「ドレミの歌」といえば、知っている方も多いことでしょう。この映画は、サルツブルクの尼僧見習いマリアと退役海軍大佐フォン・トラップと7人の子供たちの物語で、実際にあった物語です。
映画では、いかにも美しい家庭教師(実際は肝っ玉母さんタイプだそうです)と子供たちとフォン・トラップ大佐の愛の物語になっていて、ナチスドイツを敵に回しアメリカ人好みの映画に脚本されていますが、史実とは多少異なること位は皆様もご存知かと思います。(映画ですから仕方ないですよね)。
日本では1965年に公開され、オーストリア好きの私はもちろん見に行き感動をしました。オーストリアでも大ヒットした事と思っていましたが、ナチスが出てくる場面が多く、オーストリア人にはトラウマになっているようで、若い人には映画も歌も知らない人が多いようです。戦争を知っている人にはナチスに苦しめられた思い出しかないようです。実際、オーストリアはナチスドイツの手に落ち、オーストリアという国がなくなった時期がありました
_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/
1938年3月12日ドイツ軍のオーストリア侵略によってオーストリアの独立を守ろうとしたシュシニック内閣は崩壊。オーストリア人にもナチスを信奉する者も多く、抵抗するオーストリア人はユダヤ人と同じように収容所に送られ処刑された人も多かった。占領されたオーストリアは、オストマルク法(1939年制定)によって国としての独立性を失い、オーストリアという名も消滅。その後、第2次世界大戦が勃発しオーストリア人も無理やり参加させられ、多くの犠牲者が出た。
_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/ ̄_/ ̄_/ ̄_/ ̄/
ですから今でもナチスが出てくる映画や本は、当時を知っているオーストリア人にとって、鬼門なのでしょう。映画では"トラップ一家"はアメリカへ行き、物語は終了していますが、後日のインタビューでは"トラップ一家"はこの映画を余りお気に召していなかったようです。
この映画は「サルツブルク」の街を縦横無尽に撮り尽しておりこの映画を見て感動し、オーストリアへ行かれた方も多く、街のあちこちに映画にあった場面が思い出されます。ミラベル庭園の階段ではアメリカからの観光客が必ず一段一段"ドレミの歌"を合唱しながら上り下りする光景を目にします。(私は見ました)
その他、ノンベルク尼僧院、レジデンス広場とレジデンス広場の噴水、エーデルワイスを歌ったフェルゼンライトシューレ、聖ペーター墓地、レオポルズクローン城、ヘルブルン宮殿の中にあるガラス製の8角形の東屋、トラップとマリアが結婚式を挙げたモントゼー教会。など、これから「サルツブルク」へ旅される方には旅行案内映画としてご覧になっては如何でしょうか。

【余計な追加情報】
ゲオルク・フォン・トラップ大佐        1880/4/4~1947/3/30
マリア・オーガスタ・クチェラ         1905/1/26~1987/3/28
マリア、ゲオルク・フォン・トラップ男爵と結婚 1927/11/27
サルツブルク音楽祭でトラップ・ファミリー合唱団が優勝 1936/8
トラップ・ファミリー、オーストリアを脱出   1938/9
アメリカ・ヴァーモント州ストウで居を構える  1942
映画「サウンド・オブ・ミュージック」全米公開 1965/3/2

マリア・テレジアとその時代 その1

マリア・テレジアとその時代 その1

マリア・テレジアといえば皆さんはすでに良くご存知の事でしょうし、更なる追記は不要かと思います。しかしマリア・テレジアが活躍していたその時代、世界の情勢はどうだったのか・・・・少しは知りたいと思いませんか?
マリア・テレジアが生まれたときヨーロッパの諸国はどのような事件があったのか、また日本ではどのような時代だったのか・・・・・。
神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと結婚した当時は・・・・。
娘のマリア・アントニア(マリー・アントワネット)が結婚した当時は・・・。
マリア・テレジアが没した時、世界の情勢は・・・・。
そんなことを思いつくまま述べたいと思います。
まずは、皆様ご存知の彼女の履歴から述べましょう。
マリア・テレジア(Maria Theresia、1717年5月13日~1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの妃、オーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王。在位は1740年 ~1780年。ここまでは皆様ご存知のことかと思います。そして、これもご存知かと思いますが、マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝ではありません、神聖ローマ皇帝は夫のフランツ・シュテファンですが、しかし実態は女帝そのものでした。
★マリア・テレジアが生まれた1717年、この時世界はどうだったんでしょうか。
○1717年8月16日(享保2年7月10日)
この時、オイゲン公が率いるオーストリア軍がオスマン軍と戦っておりこの日、オスマン軍を破ってベオグラードを奪取しています。

○1717年8月22日(享保2年7月16日)
スペイン宰相アルベローニが、サルデーニャを占領してシチリア奪回を画策した日です

○1717年8月28日(享保2年7月22日)
フランスの画家アントアーヌ・ヴァトーが「シテール島への船出」を発表した日です。

★では日本では何が起こっていたのか・・・・。
○1717年3月15日(享保2年2月3日)
皆様ご存知の普請奉行大岡忠相が江戸南奉行に抜擢され、官職名を越前守と改めた日なのです。この年、江戸では火事が多く享保2年1月には小石川馬場から出火し、評定所他大名・旗本屋敷・町屋を焼き、日本橋・深川まで200余町が焼失したと有り。

○1717年4月22日(享保2年3月11日)
あの将軍吉宗が、武家諸法度を天和の制に戻しました。

★オーストリア継承戦争(1740年~1748年)の勃発時はどうでしたでしょうか。
オーストリア継承戦争はカール6世が没し(55歳)、マリアテレジアがハプスブルク家を相続したために起こった戦争ですが、これは1740年10月20日(元文5年8月30日)のことです。

この時起こった各地の出来事です。
○1740年12月16日(元文5年20月28日)
フリードリッヒ2世が、オーストリア領シュレジエンの併合をオーストリアに要求し、第1次シュレジエン戦争が始まりました。

○1741年5月8日(寛保元年3月23日)
フランスとバイエルンがニンフェンブルク条約を結び、ザクセン、スペイン、プロイセンを加えて対オーストリア同盟が成立しました。

○1741年6月25日(寛保元年5月13日)
ハプスブルク家のマリア・テレジアが在位した翌年、ハンガリー女王として戴冠しました。

★そのほか文化人に目を向ければ。
○1740年6月20日(元文5年5月9日)
サド・マゾという語源の元となった、フランスの作家・サドが誕生しました。(Sade,Donatien Alphonse Francois de)

○1741年7月28日(寛保元年6月16日)
皆様ご存知のイタリアの作曲家、ヴィヴァルディ(Vivaldi,Antonio)が没した年でもあります。63歳(誕生:1678/03/04)でした。

○1742年1月14日(寛保元年12月20日)
1682年にハレー彗星を観測し、周期彗星の存在を確認し、1705年にハレー彗星の記録を調査して
同一彗星が周期的に楕円軌道を描いて再現することを確認した。天文学者、エドモンド・ハレー(Halley,Edmond)が没しました。85歳(誕生:1656年10月29日)

○1743年2月19日(寛保3年1月25日)
イタリアの作曲家ボッケリーニ(Boccherini,Luigi)がルッカに誕生。

○1745年2月18日(延享2年10月18日)
電池を発明するイタリアの物理学者ボルタ(Volta,Alessandro)誕生。

○1746年3月30日(延享3年2月9日)
スペインの画家ゴヤ(Francisco de Goya y Lucientes)誕生。

★日本ではどういった時代だったのか
○1743年7月22日(寛保3年6月2日)
陶工であり絵師であった尾形乾山が没す。81歳(誕生:寛文3(1663))

○1745年1月20日(延享元年12月18日)
日本地図を作成した伊能忠敬誕生しています。

○1747年8月20日(延享4年7月15日)
甘藷先生と呼ばれた青木昆陽が幕府の評定所儒者になる。

ちょっとマニアックな書き方になってしまいましたがマリア・テレジアの時代に起こった世界の出来事です。次回もこの続きをお話します。

マリア・テレジアとその時代 その2

マリア・テレジアとその時代 その2

カール6世が逝去し、23歳でマリア・テレジアが家督を相続したときは、厳しい7年戦争が勃発しましたが、それを乗り越えて夫のフランツ一世と一緒にハプスブルク家を支えていったのです。
夫のフランツとは当時としては珍しい恋愛結婚でした。彼女は16人の子供をもうけたが医学の未熟な当時は残念ながら6人は亡くなってしまう。その最愛の夫を早くなくし、その落胆は計り知れないものでした、彼女は生涯、喪服を脱ぐことはなかったのです。夫を亡くした彼女は何時までも悲しみにくれているわけにもいかず直面している政治や外交問題がありました。
1741年ハンガリー王冠を戴いた彼女はハンガリー議会でハンガリー死守の決意を明らかにし涙を流しながら切々と救援を訴えた。王家に反抗的なハンガリー貴族も彼女の切なる訴えに感動しハプスブルク家の支援を約束させました。女性ではあったが国を思う彼女の国策は多くの国民から慕われ、彼女もハプスブルク家の繁栄に寄与しました。
マリア・アントニア(アントワネット)を14歳でルイ16世(当時、王太子ルイ・オーギュスト)のもとに嫁がせたが、アントニアの性格を良く知っている母親として、王妃としての心構えを良く言い聞かせたそうですが、そのやり取りした手紙が残っています。国を預かる身とはいえ、悩みも多かったようで、孤独の寂しさを綴った手紙が残されています。マリア・テレジアも娘の前ではただの母親だったようです。そのテレジアも1780年、63年の生涯を閉じたのです。いろいろな改革も息子のヨーゼフ二世が引き継ぎ、改革が進められました。この改革によって教育・福祉の水準は向上し産業の発展をみ、近代国家へと脱皮していきました。今でもウィーンの町を歩くとマリア・テレジアの足跡を多く見ることが出来ます。初めての方も、何度もいらした方も今一度、マリア・テレジアに思いを馳せてみては如何でしょうか。

モーツァルト生誕250年とその時代

モーツァルト生誕250年とその時代

この一月はモーツァルト生誕250年ということで、世界各地でモーツァルト・イベントが目白押し。今回はモーツァルトを中心に語っていきましょう。モーツァルトは35年という短い生涯において小夜想曲(アイネ・クライネ・ナッハトムジーク)など世界的に親しまれている名曲をはじめ、20作以上のオペラと50近くの交響曲、25のピアノ協奏曲、6つのヴァイオリン協奏曲、23の弦楽四重奏曲など、626曲という天文学的な数の作品を世に送り出しました。?
Wolfgang Amadeus Mozartヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
★1756年1月27日(宝暦5年12月26日)夜8時、サルツブルクのゲトライデガッセ9番地、ヨハン・ローレンツ・ハーゲナウナの家で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生しました。ヨハン・ローレンツ・ハーゲナウナはモーツァルト家の家主であり奥様の名前がマリア・テレジアといいます。どこかで聞いた名前ですね、オーストリアでは一般的な名前なのでしょう。
この家は今では美術博物館となってサルツブルクの名所であり観光客が必ず訪れる場所になっています。オーストリアに行かれた際には是非、足を運んでみてください。
では、モーツァルトが生まれたこの年の時代背景はどうだったんでしょうか。5月1日宝暦6年4月3日フランスがオーストリアとヴェルサイユ中立防衛同盟を結ぶ。8月28日宝暦6年8月3日フリードリッヒ2世が突然ザクセンに侵入して、七年戦争が始る。モーツァルトが生まれた年はこんな時代でした。

★1760年、ヴォルフガングが4歳のとき、父から「ナンネルの楽譜帳」でクラヴィアのレッスンを受け始めました。そしてモーツァルトの初期の作曲がこれに記録されていくことになります。そのときの時代は・・・・・・・8月15日 プロイセンのフリードリッヒ2世がシュレジエンのリーグニッツでオーストリア軍を急襲し破ってます。そして日本では10月10日、家重の長男徳川家治が第10代の征夷大将軍になり、政治の舵取りは田沼意次になりました。そして11月30日、我が国初の麻酔手術を行う華岡青洲が誕生した年でもあります。

★1782年10月27日、モーツァルトは父の反対を押切ってコンスタンツェ・ヴェーバーと聖シュテファン教会で結婚します。この時代はというと、3月にローマ教皇ピウス6世がウィーンを訪れてヨーゼフ2世の宗教改革を阻止するよう試みました。10月27日、イタリアの作曲家パガニーニ(Paganini,Nicolo)が誕生しています。

★1786年この年、誰もが知っているオペラ「フィガロの結婚」が書かれましたがモーツァルトの人気は下降をたどっていきます。この「フィガロの結婚」、序曲は4月29日に完成、5月1日にブルク劇場で初演されています。この年の3月、前回紹介したウィーンの公営の質屋(ドロテウムの前身)の経営状態をみるために、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世がお忍びで質屋に入り自分の帽子を質入れしようとしたそうです、はっきりと日時が残っているというのは、忙しいさなか市民のために働いていたんですね。
8月17日プロシア王のフリードリッヒ大王(Friedrich II,der Grosse)が没しました。74歳(誕生:1712年1月24日)11月18日「魔弾の射手」を作曲するドイツの作曲家ウェーバー(Weber,CarlMaria von)がオィティンに誕生しました。日本では9月17日、江戸幕府第10代将軍の徳川家治が50歳で病没。(誕生1737年5月22日)9月19日には田沼意次が老中を解任されています。

★1791年12月5日、モーツァルトはウィーンに流行していた悪性のチフスにかかって亡くなりました。ご存知の通りさびしい死でした。またこの年12月12日にはナポレオン1世の第2皇后になるマリー・ルイーズ(Marie Louise)が誕生しています。
モーツァルトが子供の頃マリー・アントワネットに対し僕のお嫁さんにしてあげるといった風説が有りますがこのマリー・アントワネットがルイ16世と共に夜、馬車で密かにパリを脱出し見つかって捕らえられたヴァレンヌ事件が6月21日に起こっています。これもひとつの運命なんでしょうか。(逃亡20日)ルイ16世の弟プロヴァンス伯は6月29日パリからブリュッセルに逃亡します。そのため7月5日に神聖ローマ皇帝レオポルド2世が、フランス国王ルイ16世への援助協力をヨーロッパ列国に要請をしています。そして12月21日オーストリアが、再び対フランス武力干渉を表明をしています。
モーツァルト自身、自分の一生をどう感じていたのでしょうか。長く生きても一生、短く生きても一生。後世に名を残したモーツァルト。多分幸せな一生だったのでしょうね。そう思いたいですね。

映画"第三の男"に見るウィーンの街角

映画"第三の男"に見るウィーンの街角

またまた、映画ネタになりました。オーストリアが紹介された映画は数多く、前回紹介した「サウンド・オブ・ミュージック」をはじめ、「アマデウス」「会議は踊る」「うたかたの恋」「カサブランカ?」など、懐かしい作品が並びますが、今回は第二次世界大戦後のウィーンの街を映し出した「第三の男」を紹介したいと思います。
まずは初めての方に"あらすじを"・・・・・・・・。
この映画は第二次世界大戦直後のウイーンを舞台にして作られたのですが、オーストリアはドイツに併合されていましたから大戦後は米、英、仏、露、四ケ国の占領下に置かれていました。物語はウイーンの町にペニシリンの闇商売で富を築くオーソン・ウエルズ扮するハリーライムと、彼の悪事を糾弾する親友のホリー・マーチン(ジョセフ・コットン)ハリーの恋人でホリーにも慕われるチェコからの亡命者アンナ(アリ ダバリ)の織り成す混乱期の社会を背景にした愛とサスペンスのドラマですが、実際にあった出来事ではありませんがいかにもありそうな物語です。

。。。物語。。。
第二次大戦直後、ウィーンの街の遠望から始まり、金箔されていない昔のヨハンシュトラウス像が映し出され、ベートーベンの銅像、闇市の様子から、市役所、爆撃された聖シュテファンスドーム、ブルクテアター、ザッハーホテル、カフェモーツアルトそして瓦礫のウィーンの街々などが映し出されて、そこにアメリカ人の作家ホリー(ジョセフ・コットン)が列車から降りてきたところから物語は始まります。親友のハリー(オーソン・ウエルズ)を訪ねて来たのだが、ハリーのアパートを訪ねたら彼の死を知らされる。車に轢かれて死んだという。彼の葬儀は中央墓地で行われ、そこでハリーの愛人アンナ(アリダ・バリ)に出会う。彼の死について聞いてまわるが、彼がウィーンで何をしていたのかは謎のまま。だが、イギリス占領軍の少佐(トレバー・ハワード)から意外な情報がもたらされる。ハリーは水で薄めたペニシリンを横流しする闇取引の黒幕だったというのだ。しかも多数の犠牲者を出していた。そんな折、ハリーの死体を運んだ第三の男を見たという門番の証言が出た。第三の男とは誰なのか?

ここから、ウィーンの街々が出てくるのだが終戦直後とあって壊れた建物が多く、映像も夜や闇市などの表現が多く、忌まわしい大戦だったことを早く忘れたいオーストリア人にとってこの「第三の男」は見るに耐えられない映画としか映らなかったようでオーストリアでの興行はだめだったようです。実際、映画「第三の男」がウィーンで封切られたのは1950年3月10日~4月16日までの五週間。当時ウィーンには182軒の映画館があったにもかかわらず「第三の男」を上映したのは市内六区にあるアポロ劇場、たった一軒だけで公開されました。
この映画は1949年9月ロンドンで初めて公開されたときの人々は感動のあまり呆然としたといいます。 数日後、カンヌ映画祭にてグランプリを受賞し、日本での公開は3年後の1952年9月でした。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
★映画が完成した1949年の世界は・・・・・
1949/08/24,昭和24/08/24
北大西洋協約機構(NATO)が発足する。

1949/09/08,昭和24/09/08
リヒャルト・シュトラウス(Strauss,Richard)没。85歳(誕生:1864/06/11)。

1949/09/15,昭和24/09/15
西ドイツでアデナウアーが首相に選出される。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
★映画が完成した1949年の日本は・・・・・
1949/01/15,昭和24/01/15
初の「成人の日」。

1949/02/16,昭和24/02/16
第3次吉田内閣が成立する。蔵相に池田勇人。

1949/11/03,昭和24/11/03
湯川秀樹京大教授に対するノーベル物理学賞授与が発表される。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
★日本で公開された1952年、世界は・・・・・・・
1952/02/08,昭和27/02/08
イギリスで、第1王女エリザベス(26)が王位を継承し、エリザベス2世となる

1952/07/07,昭和27/07/07
1944年から禁止されていたオーストリアのソ連領地域のドナウ川の航行が再開。

1952/12/12,昭和27/12/12
ウィーンで諸国民平和大会が開催される。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
★日本で公開された1952年、日本は・・・・・・・
1952/03/04,昭和27/03/04
十勝沖地震。午前10時23分、襟裳岬南方70キロの十勝沖を震源とするマグニチュード8.2の地震が起こる。

1952/04/10,昭和27/04/10
NHKの連続放送劇「君の名は」の放送が開始される。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
ウィーン情緒豊かな食品市場ナッシュマルクトのほど近くには、この「第三の男」をテーマにした私設博物館がある。開館されているのは、毎週土曜日の午後。館内には映画ポスター、スチール写真、プログラムに加え、レコードからDVDまで約300点に上る音と映像の記録が、また世界各国から集められた展示品の数々からは、爆撃で破壊された当時のウィーンの日常生活や、映画史を飾る名画の背景などが紹介されている。
Der Dritte Mann Museum
開館毎週土曜14:00~18:00
入館料 6ユーロ(子供16歳未満4ユーロ)
所在地Pressgasse 25, 1040 Wien
Der Dritte Mann Museum
URL http://members.aon.at/3mpc/yapsamml.htm

宰相メッテルニヒ

宰相メッテルニヒ

Prince Klemens Lothar Wenzel Von Metternich 1773年5月15日~1859年6月11日
オーストリアの宰相でもっとも有名な人物は「会議は踊る」で有名な「ウィーン会議」を主宰した、メッテルニヒではないでしょうか。ウィーン会議といえば彼のお抱えコックがエドワード・サッハといい、この会議で「サッハートルテ」が初めて作られたことは先のメールマガジンで紹介したとおりです。
メッテルニヒはライン川左岸の名門貴族メッテルニヒ侯爵家の長男として生まれ、面差しも美しく、物腰も気品に満ちていたといわれます。フランス革命の後、ウィーン政府に外交官として登用されますが彼の経歴は、ストラスブール、マインツの各大学で歴史、政治、法律を学び、1795年、カウニッツ宰相の孫マリアと結婚後は、その理智、弁舌、容姿で躍進的出世をとげます。1809年ワグラムの敗戦とともに外相となり、エリートの生涯を送った貴族です。
1809年の外相時,皇女マリア=ルイゼとナポレオンとの結婚を実現させ,現実的な外交政策を展開したことは歴史にみるとおりです。巧みな外交策で時を稼ぎ、反ナポレオン大同盟を成立させて、ナポレオンを服させ、ナポレオンのフランスを敗北に導き,その後のウイーン会議で絶対君主の国際的団結をはかりました。ウイーン会議を主宰したことによりオーストリアの威信を高め、国際保守主義の闘士として、ヨーロッパ外交界の指導的役割を演じました。
そして、あらゆる自由主義、国民主義を容赦なく弾圧したいわゆる"メッテルニヒ時代"を出現させたことでも有名です。後年、ギリシャやラテン・アメリカの独立運動に武力干渉しようとして失敗し、一時は、外国に亡命したが、帰国後はオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフの顧問となります。
それよりも食文化協会としては、「サッハートルテ」を作らせたことのほうが有名ではないでしょうか。「サッハートルテ」については以前にも記しましがいずれ別のエピソードでも述べたいと思います。
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
★メッテルニヒの生まれた1773年
5月11日 (彼が生まれる4日前)イギリス議会が、東インド会社の植民地での
茶の独占販売権を認める茶法(茶条例)を可決します。ここからもイギリスののお茶好きが分かりますね。

12月16日 には、有名なボストン茶会事件勃発。ボストン港に停泊していたイ
ギリス船で開かれた茶会で、インディアンに変装した植民地人が東インド会社の茶箱342箱を海中に投げ捨てる事件があったことは紅茶好きの方はご存知かもしれません。

★サッハトルテが作られた1832年
ルイス・キャロル(不思議の国のアリス)が誕生。この年にあのドイツの詩人、ゲーテが亡くなっています。そのとき日本では、古河財閥を築く古河市兵衛誕生し、大泥棒鼠小僧次郎吉が獄門になっています。

★メッテルニヒの没した1859年
ナポレオン3世がオーストリア大使にフランスとオーストリア両国関係の悪化を通告し、ダーウィンの「種の起源」の初版が出版され、ドイツの童話作家グリム兄弟の弟ウィルヘルム・グリムが亡くなっています。そのとき日本では作家・坪内逍遥誕生。 ヘボン式のアメリカ人宣教師ヘボン夫妻が来日しています。
メッテルニヒが活躍した時代はこんな時代でした。

ワインと打診法

ワインと打診法

ワインと打診法とは不思議な組み合わせだがオーストリアの医学は過去から現在に至るまで多くの人々を救ってきた。今の若い人はご存知ないかもしれないが、昔は内科のお医者さんに診てもらうと胸に聴診器を当てたあと、先生が胸の上から指でもって"トントン"と叩いて「ハイよろしいですよ」と診断してくれました。
なぜこのような打診法を行ったかというのは、昔の聴診器は感度もいまひとつで、更にどこかに病気の見落としがないか、胸を叩いて異常を見つけようとしたそうです。胸を叩いただけで体の異常を発見してくれるなんてお医者さんはマジシャンですね。
さてこの打診法、いつ頃どこで行われていたかと言うと18世紀のオーストリアで初めて考案されました。今では内視鏡、超音波、CT,MRIなどの診断機器は日進月歩に発達していますが体内の様子を探るための道具を使わない"トントン"と叩く打診法は1761年、オーストリアの南部、グラーツ市でレオポルド・アウエンブルッガー(Leopold Auenbrugger 1722-1809)によって考案されました。
彼の家は旅館兼居酒屋を営む家で、父親が商売物のワイン樽の残量を調べるために樽を叩いている様子を見て打診法のヒントを受けたと言われています。彼自身も子供のころから音楽好きで音感には敏感であることから父親の行動には理解を示したことでしょう。今ではあたり前の行動でもコロンブスの卵的発見には敬意を表したいですね。彼はウイーンの医学校に進み胸壁を叩くと心臓と肺とでは異なる音を発見。子供のころからの音楽好きということで絶対音感の持ち主なのかもしれませんね。新発見と言うのはいつの時代でもそうですが初めのころは認められなかったようですが、フランスのコルサヴィールが1808年に心臓疾患の診断に有用な「打診法」を紹介してから再認知され、現在に至っているようです。グラーツ市でのワイン樽叩きが、世界中の人々を救ったなんてオーストリアが病気の発見撲滅の歴史を作ったんですね。そして胸を見るための道具、聴診器は打診法と一緒に歩んできましたが、この聴診器の歴史は古く、古代ギリシャ時代から行われていたそうです。昔は心音を聞くには直接胸を耳に当てて聞いたそうですが如何に医者でも高貴な婦人を見るときはやはり憚れたそうで、そこから間接的に心音を聞くために筒状の聴診器が作られ、現在に至っているようです。
日本に聴診器が伝来したのは1848年オランダの出島にきていたドイツ人モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike,1814-1887)だそうです。
オーストリアの意外なる歴史の一面でした

ウィーン万博と日本

ウィーン万博と日本

パリとロンドンだけで開かれていた万国博覧会が第五回目になってウィーンで開催されたのが1873年(明治6年)5月1日から11月2日の約半年間でした。ウィーンでの万国博覧会が成功裏を収めたのが35カ国の国が参加したことです。ウィーンという立地条件がアジアの国が参加するきっかけとなったようです。プラーター公園で開催され、会場の広さは183万平方メートル、来場者数は722万5000人でした。
日本も明治政府が日本という国を世界に知らしめるため、かなりの力を入れていたようです。日本の出展品目は多岐にわたり、浮世絵、漆器、漆、人形、仏像、楽器、農工具、漁具、刀剣、仏具等などですが、大型出品物として日本パビリオンの目玉として名古屋城の金鯱と、鎌倉大仏の15メートルの張子でしたが、大仏の模型はウィーン到着後、人足の煙草の火の不始末から焼失、大仏の頭部だけが残ったのでこれを展示したとあります。日本も欧米に追い着け追い越せと躍起の明治政府が岩倉具視使節団を送り、外交関係を結んでいった経緯は学校の授業で習ったことと思います。
日本パビリオンとその出展品は,来場者からもおおむね好評で、会場での即売品の売れ行きもよかったようです。会期終了後,出展品の一部が寄付・売却され,その物産はヨーロッパ各地に広まっていったようです。当時は浮世絵による日本の美が注目されていたこともあり、芸術方面でかなり影響を与えていたようです。新芸術運動(ユーゲントシュティール・アールヌーボー)はご存知のとおりです。
これを機会として日本側は,ウィーン博覧会翌年の1874(明治7)年に,内務省の補助とともに物品輸出のための商社(「起立工商会社」)を設立しました。この商社は明治時代前半の日本の輸出貿易において大きな役割を果たしました。
1871(明治4)年、岩倉具視を全権大使とする日本政府の外交使節団が、アメリカおよびヨーロッパ大陸に向け出航、この使節団は、政治的会談・交流もさることながら、欧米諸国の国家体制、政治、社会、経済並びに技術を学ぶこと、西洋諸国の社会生活における様々な仕組を見聞することも目的としていました。岩倉使節団の帰国後に実行された改革は、日本の近代化に重要な役割を果たしました。この政府使節団の意義を明らかにするため、随行した歴史家久米邦武によって彼らの見聞の数々が記録され、今日に伝えられています。
(私事:日本の近代化に後押しをしてくれたウィーン万博にちょっぴり感謝)
詳しい情報はこちらの国会図書館のホームページからどうぞ。
国会図書館
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/vienna/section1/index.html

アウガルテン

アウガルテン

オーストリアの磁器製品といえば「アウガルテン」とすぐに思い浮かびます。ヨーロッパに於いての陶磁器の歴史はご存知の方も多いかと思いますが今一度おさらいの意味で述べたいと思います。
人類がはじめて食べ物を入れる器を作ったのははるか太古の事ですが土器と言う形で世界中から発見されています。名前どおり粘土を成形して作るのは古今東西、自然発生的なのか、力のあるものが他国を略奪しながらその技術が伝わったのか判りませんが土をこねて作るということです。これが陶器ですが、磁器はカオリンと言う石を粉にして作るのですが、中国の景徳鎮で作られた磁器がシルクロードを経てヨーロッパに伝わりました。粘土で作った陶器は厚く重いのに比べ磁器は白く薄くて丈夫、何よりも皿に描かれた絵がとても美しいのでヨーロッパの宮廷では、われ先に買い求めたものですが、何しろ高価なものなのでとてもじゃないが簡単に手に入る代物ではなかったのです。
各国の宮廷ではこの中国伝来の器を何とかして再現しようと試行錯誤したがどうしても作れない。それもそのはず、景徳鎮では1000年の歴史があり、粘土をいくらこねても出来るはずがありません。一番熱心だったのが、ドイツのザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト強王です。彼はこの中国の白磁を集めまくったせいかは知りませんが、当時のザクセンは財政難で何とか中国の白磁を自前で作れないかと錬金術師のヨハン・フリードリッヒ・ベットガーに作らせたのです。
この間の詳しい内容は他誌にお任せしますが、1708年1月15日、ヨーロッパ初の磁器製作に成功するのです。これが今でも有名な「マイセン窯」なのです。ザクセン選帝侯はこれで財政建て直しをしましたが秘密が漏れてはならないと、かなり厳しい統制をひきましたが、1718年ハプスブルクに漏れてしまい、ウィーン磁器工房が誕生したのです。ヨーロッパでは第二の磁器工房ですがその素晴らしい出来栄えは現代まで継承されていることはご存知の通りです。

代表的な製品
■プリンツオイゲン
 1720年に創られオイゲン公に献納されたもの
■マリアテレジア
 女帝マリアテレジアのシリーズ
■ビーダーマイヤー
 ウィーンビーダーマイヤー時代の典型的なウィーンスタイル
■ウィンナーローズ
 1924年ウィーン工房が再興された頃に作られたシリーズ
■オールドウィンナーローズ
こんなウィーン趣味は如何ですか?どれをとっても貴方のライフスタイルに合ったアウガルテンが見つかるかもしれません。「アウガルテン」はリンクからさほど離れてはいませんので、是非、足を運んでみては如何でしょうか。その素晴らしい出来栄えに買わずにいられない衝動に駆られること請け合いです。

アウガルテン・ホームページです
http://www.augarten.at/

グラーベン通りのペスト記念柱

グラーベン通りのペスト記念柱

聖シュテファン大聖堂から真っ直ぐ伸びる通りはグラーベン通りといい、多くの観光客でにぎわう通りであるが、そこに大きく立ちはだかる塔がペスト記念柱です。三位一体像柱ともいい、1679年ウィーンでペストが猛威を振るい10万人の人々が亡くなり、当時の皇帝、レオポルド一世がペスト終息を願って建造させたものです。製作は建築家ブルナッチーニ (Ludovico Ottavio Brunachini) とエアラッハ(Bernhard Fischer von Erlach) を中心に作成されました。初めは木造でしたが、13年後に今の大理石に立て替えられました。やはり、この悪夢が早く終焉するようにと木造で作ったのではないでしょうか、そしてこれからも、このような病気が蔓延しないよう、大理石で作成し子々孫々まで健康を願ったのでしょう。
学校の授業でも習いましたがヨーロッパを襲ったペストは人口を半減させるほどの猛威を振るい、罹患するとまず助からない病気として恐れられていました。
ヨーロッパで最初に記録が残っているペストの流行は542年から543年にかけてローマ帝国で発生したもので、「ユスティアヌスの斑点」と呼ばれたもので、その後何度もヨーロッパの各地で猛威を振るいました。14世紀にはヨーロッパ全土で猛威を振るいヨーロッパ人口の約三分の一の人が亡くなったと記録されています。
罹患すると皮膚が黒くなることから「黒死病」とも呼ばれ、宗教に頼っていた当時の人々は、「これは魔女の仕業だ」と言って多くの罪のない女性が犠牲になったとあります。魔女のペットは黒猫と言うことで罪のない女性の次は、罪のない猫が次々と殺されネズミを取るはずの猫がいないためネズミが大量発生しペスト菌を撒き散らしたと言う説も出てきました。
ネズミと言うと「ハーメルンの笛吹き男」が有名ですが、これも子供が流行の病に罹り、町から隔離するために連れ出した物語だと言う人もいます。
どちらにしても上下水道が完備されていない当時のヨーロッパは糞尿などが垂れ流しの状態で非衛生的な環境が災いしたと言われています。ヨーロッパでは公衆トイレがほとんどなく、パリのベルサイユ宮殿の庭は貴族達の糞尿の垂れ流しで庭が駄目になったとか、そしてあまりの臭さに香水が発達したとも言われています。皆さんはホテルに泊まったときベッド脇の小さなテーブルが何のためにあるのかご存知でしょうか。寝る前に読んでいた本を置いたりしていませんか?昔は部屋にトイレがなく尿瓶を置いていたテーブルです。朝になるとその尿を窓から放り投げていたと言うから驚きです。下に歩いていた人はたまったものではありませんね。そこでマントと帽子が必需品となり糞尿で歩きづらい道を爪先立って歩くことからハイヒールが生まれました。そんな中世の悲惨な出来事を思い起こさせる"ペスト記念柱"(三位一体柱)なんです。これはウィーンばかりでなくハンガリーのブタペストにもあり同じ気持ちだったのでしょう。ウイーンに行かれましたら当時の人々のご冥福を祈りたいですね。

美しき街とハルシュタット文明

美しき街とハルシュタット文明

サルツブルクの南東にオーストリアで一番美しい(私はそう思ってます)、「ハルシュタット」の街があります。人口はわずかに1000人位とか、1997年に世界文化遺産に登録されました。
私は友人の車でハルシュタットの街を巡りましたが、今ではこの景観を保つために車の乗り入れが禁止されているそうです。ハルシュタット文明に始まったこの街ですが、この美しい景観からはヨーロッパ文明の黎明といわれている歴史的地域だとは想像がつきません。このハルシュタットは紀元前900年~200年頃、ケルト人が製塩所を作ったことからケルト語で製塩所(ハル)の場所(シュタット)の意味で岩塩を採取していました。
塩は人類にとって無くてはならないもの。今から38億年も前のはるか昔、地球上で始めての生命が生まれ、やがて陸上動物の先祖は、海の水を体内に閉じ込めて上陸しました。人間は塩がなくては生きられないことは皆様もご存知の通り、昔は塩とお金は同じものとされ、サルツ(塩)から「サラリー」(給料)という言葉ができたことはご存知ですよね。
ハルシュタットは岩塩の商業都市として発展しヨーロッパ中から人々が往来し、当時の地中海文明の文化がもたらされ、大いに発達したそうです。ハルシュタット繁栄の礎となった岩塩はローマ人へ、そしてハプスブルク家に引き継がれ現在も採掘が続けられています。
この美しいハルシュタットはサルツブルク中央駅からバス(約2時間半)が出ていますのでご利用になるといいでしょう。この岩塩抗が観光客も見る事ができます。街からケーブカーで山頂へ、さらに徒歩で15分位で岩塩抗入り口になります。そこでつなぎの服に着替えトロッコで見学します。これは滑り台を降りるのですが薄暗い地底のためか、スリル満点(内緒で写真が撮られ、帰りに販売されています)です。地底の塩湖は船に乗って幽玄な静けさが見物です。このツアーに参加することで、ハルシュタット文明のほんの一端を垣間みる事ができるのではないでしょうか。
サルツブルクは塩の城という意味、ここ一体は太古の昔、海が隆起し岩塩を作り上げたのですがこの塩は日本でも買い求める事ができます。東京赤坂にあるオーストリアレストランK.u.K.(カー・ウント・カー)で購入出来ます。
Badlschl(バードイシュル)にあるSalzkammer(サルツカンマー)社製
製品名 “BERGKERN”(ベルクケルン)
値 段 500g袋入り  2,400円
    岩塩引き付き 4,000円
問合せ レストランK.u.K.(カーウントカー)担当 増田
電 話 03-3582-6622

オーストリア第二の都市 グラーツ

オーストリア第二の都市 グラーツ

ウィーンの南駅から列車で約3時間ほどで、シュタヤマルク州の州都、グラーツへ到着します。グラーツはウィーンに次ぐ第二の都市。1999年にはグラーツ市歴史地区として世界遺産に認定されました。
ここもやはり古代ローマ帝国の時代から知られており、その時代に設けられた砦、スラブ語のグラデツ(小さな城)に由来したのがグラーツの起源だそうです。なぜ砦(城)を築いたかというと東からの外敵に備えた要塞の役割だそうで、中世後期にはハプスブルク家が支配していました。1438から1453年にかけて皇帝フリードリッヒ3世はここに居城をおき、守りを固め、最大の防衛はオスマントルコの侵攻が16~17世紀にありこの砦(城)が重要拠点となりました。
ここで生まれた有名人も多く、ハプスブルク家のフェルディナント2世やフランツ・フェルディナント大公はこの地で生まれました。そしてなんと言っても最近の有名人はアーノルド・シュワルツェネッガーでしょう。(注、グラーツ近郊のタール・バイ・グラーツで生まれで、グラーツ市内ではない)
そして世界遺産の歴史地区に認定されたグラーツは中世建築が多い古臭い街と思ってはいませんか?実際に街を歩くと中世の町並みが多く残って、静かで落ち着いた町ですが「クンストハウス」に代表されるように「エッ!この建物は何??」という近代建築もあります。(私もはじめてみたときは何だこれは?と思いました)
音楽祭というとサルツブルクを思い浮かべますがここグラーツでも、毎年大きな音楽祭が開催されています。そのほかにも映画祭、芸術祭は有名で、開催されるたびに大勢の観客が詰めかけます。いかかですか?こんな街、グラーツを訪ねてみようではありませんか。

【追加情報】
ジェフユナイテッド市原・千葉で監督に就任したイヴィツァ・オシム監督がグラーツのサッカーチーム・SKシュトゥルム・グラーツの監督を務めていたことがあったのをご存知でしたか?

POST BUS  (ポストブス)Nr.1

POST BUS  (ポストブス)Nr.1

オーストリアやスイス、ドイツを旅行していると必ず黄色いポストバスを見かけます。これもハプスブルクの歴史そのものです。(注 ドイツ語でバスのことをブスといいます)この郵便事業を最初に思いついたのがイタリア人のデ・タシス(ドイツ名でフランツ・フォン・タクシス)でした。彼は1489年(1516年の説もあり)神聖ローマ帝国の皇帝マキシミリアン一世に願い出て事業を興しました。郵便がこのとき始まったわけではなく、手紙専門の飛脚の歴史はギリシャ時代からあったようで、非常に古い職業ですが、費用は非常に高かったようです。その時代には王侯貴族などの裕福層たちが主に利用していたらしく、一般庶民が利用するということは、よほどの事が無ければ利用できなかったようですね。一般庶民が旅行をするとき、馬やロバで旅が出来るのは裕福なものだけで、ましてや馬車といえば王侯貴族、高位聖職者、豪族などしか所有しておらず、一般市民の旅行が盛んになり始めた15世紀ごろに商機と見たものが客に応じ、町々に人を運んでいったのが、だんだんと街道を往来する長距離乗合駅馬車と発展していきます。馬車は馬が引きますから一定の場所に中継地点が出来ます。
これがラテン語のポネーレ(ponere・置く)(標柱、掲示、位置の意)からポストという名前が生まれました。これが駅になり旅人が多くなれば需要と供給の理論どおりあちこちに出来始め、この駅馬車がだんだんと発展してきました。駅に選ばれる場所は馬の手入れや休む所でなくてはならないのでその町の大きなホテル(旅籠)前が選ばれ、後のポストホテルへとなっていきます。今でも地方に行くとポストホテルを見かけることが多く、町のランドマークとなっています。
この駅馬車、アメリカ大陸が発見されヨーロッパ人が移住した際に、駅馬車事業もアメリカで発展し、映画で見るようなシーンが展開するわけです。昔の駅馬車ですから道路事情、天候、何よりも馬の事情により時間通りには行かなかったようで(ヨーロッパの列車時刻のいいかげんも、このころからあったんですね)、印刷物が高価だった時代、駅馬車の時刻表はポストホテルに行かなければ分からなかったようで、ポストホテルもだんだんと駅馬車案内所(時刻表掲示)、待合所、宿泊所(これはお手のもの)、食堂(当時はアラカルトメニューは無い、詳しくはいずれ記述)を充実させポストホテルも栄えてきました。町もポストホテルを中心にいくつものホテルが出来てきて客の争奪戦が生まれ、どこぞの日本の観光地が思い浮かばれる競争が生まれてきました。駅馬車も手紙や荷物も扱うようになり、手紙もポストホテル留めとして扱われてきました。当時の手紙、荷物は強盗に狙われることもあって、本当に相手に着くかどうか心配だったようで、はじめは受取人払いだったようです。でも、飛脚便よりかは安かったので徐々に取り扱いが増えてきました。

POST BUS  (ポストブス)Nr,2

POST BUS  (ポストブス)Nr,2

ドイツ語でバスのことをブスと言います。一般的にAuto Bus(アウトブス)乗合自動車といいます。
前回の続きですが民間郵便事業がハプスブルク家の一任で生まれ、このシステムが今日では世界中で受け継がれています。いいですね~。このシステムを最初に思いついた"デ・タシス"の先見の明は素晴らしいものがありますね。
彼は、これは商売になると踏んでマクシミリアン一世に願い出て、神聖ローマ帝国の敷地内(北はドイツから南はイタリアまで)は公用郵便を無料で引き受ける代わりに民間郵便の独占を願い出て認められました。デ・タシスはハプスブルク公認の郵便事業駅馬車を黄色に塗り、御者には制服を着せクラクション替わりに角笛を持たせて帝国中に送り出しました。街道を走る黄色い馬車の宣伝効果は抜群で、以前は駅馬車が片手間で扱っていた手紙をポストホテル留めからローカル飛脚を使い、各家庭まで届けさせ信用を作っていき、小荷物を扱い、旅客も扱うようになり、発展していき、子孫はハプスブルク家領外にも路線を延ばしヨーロッパ大陸の郵便を独占したほど大いに儲けたそうです。
こんなに儲かるとなると各国では「そんなに儲かるなら国営にしよう」という、政治家の勝手な論理で儲かるなら国営、儲からないなら民営化と、どこかで聞いた言葉ですが、"デ・タシス"は莫大な補償金で手放すことになりました。ハプスブルクの臣民"デ・タシス"は、ドイツ名フランツ・フォン・タクシスとしてドイツに居を構え、今ではドイツ有数の財閥になっています。この時から郵便馬車は黄色に角笛マークがシンボルとなり、今では馬からバスへと引き継がれているのです。
イギリスでも大陸で流行っている郵便事業をわが国にも・・・・と、言うことで始めましたがさすがに黄色の色まで真似るのは気が引けたのか鮮やかな赤色で出発しました。日本の郵便事業は"前島密"がイギリスからそのまま取り入れたものです。受取人払いだった費用も1840年イギリスで郵便切手が考案されてから解決されました。今では町にあふれている郵便ポストは昔のイギリスで、クリスマスカードがブームになり、一時のその取り扱いが(12月に集中)郵便局だけでは処理しきれず、切手さえ貼ってあれば郵便ポストでも受け付けますよ、ということで、イギリスで生まれたものです。
オーストリアのポストブス観光旅行は如何ですか?山間を走る、ポストブスに揺られ観光本に乗ってない町を巡る旅も乙なもんじゃないでしょうか。
それではPostBusに乗ってGuter Reise(よい旅行)を!